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 迷いの森 

 第六章   消せない過去と未来への扉  3 



その客はダグラス・フェインという名の画商だった。
もともと地元では有名な資産家の出で、実業家でもある彼は、本業の傍ら趣味も兼ねた道楽で美術商を営んでいた。
二人は絵画のことで話が合い、彼はその後もたびたび彼女を目当てに店を訪れるようになった。
カレッジのコースに入ることを紗耶に勧めたのも彼だ。
そしてどこで調達したのか、明らかに偽造と思われる書類を用意してきたフェインは、彼女の進学に便宜を図ってくれた。
そこで紗耶は本格的に絵画に対する知識と審美眼を養い、スキルを積んだ。元からあった美術的センスという下地に加えて、その経験が後々のキャリアに大きく影響したことは確かだ。

フェインの説得で彼女はナイトクラブの仕事を辞め、夜の仕事から完全に離れた。
そして彼のパートナーとして公私に渡り数年間、共に生活をすることとなる。



紗耶はフェインの庇護の下、絵画に造詣を深める傍ら、実践的なビジネスも学んだ。絵画や美術品のように、はっきりとした売買基準がないものは、得てして取引する者の手腕如何で価格が大きく変わってしまう。
真贋を見抜く力が必要なのはもちろんのこと、いかに価値のあるものを安く買い叩き、高値で売り捌くかはギャンブルに近い駆け引きだ。
紗耶にはその才能があると確信したフェインは、ノウハウを徹底的に仕込み、彼女を一端の画商に育て上げたのだ。


フェインと紗耶は40以上年齢が離れていたこともあり、一緒にいると愛人というよりは父親と娘のような感じだった。若い頃から奔放な生活をしてきた彼は、長年の放蕩がたたって体のあちこちを病んでいたせいで、紗耶に性的な関係を求めることはなかった。
二人の関係は、傍から見れば裕福な老齢の男性に囲われた若い東洋人の女と映っていたに違いないが、実際はそういう関係は一切なかった。彼の男としての見栄を立てるという便宜上、周囲にそう思わせていただけだ。
強いて言うならば、二人の間柄は師匠と弟子といったところだろうか。仕入や売却の交渉時や、オークション会場では、勉強がてら常に彼らは行動を共にしていた。それが周囲の目にどう映るか分かった上で、敢えて二人は堂々とそうして見せたのだった。

そして紗耶がカレッジを出ると、彼女はフェインと正式にマネージメント契約を結び、画廊の経営を一任されることになった。

こうして理解と包容力のあるフェインの側で、精神的にも経済的にも落ち着いた環境を与えられた紗耶は、やっと自分の進むべき道を見つけ出したのだ。



そんな彼女を新たな悲劇が襲ったのは、28歳の誕生日を目前にした頃のことだ。
腹部が痛み、時には不正出血まで起し始めた自分の体調に不安を覚えた彼女は、医師の診察を受けた。
診断の結果、卵巣に膿が溜まり、卵管が癒着、そして子宮にも腫瘍ができていると告知される。
特に子宮の腫瘍は検査の結果悪性と診断され、この時点で、それらを全て摘出する以外手の施しようがないと診断されてしまったのだ。

思い起せば、これまでもその予兆はあった。
元々若い頃から周期がばらばらで、月経痛もひどかった。
10年前、美優を産んでからわずか数日で失踪した彼女は、その後長い間医者にかかることができず、身体のケアがまったくできなかった。出産時から子宮の戻りが悪く、だらだらと出血が続いたため、薬を服用して様子をみるように言われていた。そのまま放置してしまったと言う自覚はあったのだが、最初は生活が苦しく、それが落ち着いた後もなかなか婦人科を受診する機会がなかったのだ。

最終的に、彼女は子宮と卵巣の全摘手術を受けた。
女性として、大事な生殖器官をすべて取り去るというその手術は、命と引き換えの、生きるためには止むを得ない処置だった。



その後暫くしてフェインが亡くなると、紗耶は彼の画廊の所有権と経営権を買い取った。
彼の遺産はすべて家族に分配させ、紗耶は何一つ受け取らなかった。それがダグラス・フェインとマネージメントの契約を結んだ時からの彼女の希望であり、約束だったからだ。

それからの紗耶は我武者羅に、ただひたすら画廊の経営に勤しんだ。
何かに追われるように、寝る時間も惜しんで仕事をし続けた。
そして、気が付けば、彼女は35歳になっていた。


アメリカに移り住んで18年近くの歳月が流れ、娘は今年18歳になる。
自分の祖父が残した遺言がそのまま効力を持っているとしたら、あの時の自分と同じ18歳になった娘にも、同じ様な災いが降りかかるのではないかという恐れが彼女の中に芽生えた。そして、娘の誕生日近づくにつれてその思いは強まる一方だ。
そして数ヶ月前。

あの子に自分と同じ轍を踏ませてはならない。

ただその思いだけで、ついに紗耶は帰国の覚悟を決めた。もしもの場合、画廊を売却する手筈まで整えた。自分の力で成功し伸し上がった、彼女の苦労続きの人生の中でつかんだ成功の証でさえも、娘を案じるその決意を翻させることはできなかったのだ。

全てはこの世にたった一人の、血を分けた我が子のために。



「私にはもう、あの子しかいない。それを取り上げ、引き離したあなたが憎かった。だからもしも…もしもあの子が昔の私みたいに不幸な生活をしているのならば、どんなことをしても結城の家から連れ出すつもりだった。
でも、あの子は…美優はあなたたちに愛されて、ここで幸せに暮らしている。私はそれを、それだけを確かめたくて、日本に戻ってきたのよ」
「だからもう一度…やり直す気はないと言うのか」
「今更過去をすべてなかったことにはできないわ。私は何度も過ちを犯した。そんな醜い過去に蓋をして、何も知らないような顔をして平然と暮らすことなんて、私にはできない。
美優が幸せなら、私はそれでいいの。これで心置きなくアメリカに戻ることができるから」

諦めの滲む表情でそう言い切る紗耶に、圭市が食い下がる。
「私にだって、一人でいる間にはいろいろなことがあった。君だけを責めることはできない。だからすべてを聞いて、知った上でそれでも君と一緒にやり直したいと言ったら?
これからは、ここで一緒に、あの子の幸せを見守るという選択肢は君にはないのか?」

そう言われた後、ややあって、彼女は首を横に振った。
「たとえあなたがすべてを許してくれたとしても、私が自分を許せない。
美優を捨てて逃げたことや身体を売ったこと、それらは全部望んだわけではないけれど自分が選んだ道だから。
それに18年間、私たちは別々の人生を歩んできたの。それを簡単に変えることはできないわ」
そして、彼女は悲しげな微笑を浮かべた。
「でも、もしもあの時、今の半分、ううん、十分の一でも互いの気持ちを正直にぶつけあうことができていたなら、二人で歩む人生もあったのかもしれないわね」


「紗耶…」
圭市が何か言いかけたその時、突然携帯が鳴った。
彼は苛立たしげに息を吐き出すと、紗耶に背を向けながらポケットからそれを取り出す。
「何だ?」
着信を見た圭市は、声を低めて電話に出た。前置きもなく会話が始まり、話を聞いているうちに彼の様子が変わる。
「分かった。すぐにそちらに向かう。君は美優を連れて先に行っていてくれ」

携帯を閉じると、彼は紗耶に向き直り気遣わしげに一言、こう告げた。

「結城会長が、君の父上が危篤に陥った。もう…時間の問題だそうだ」




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