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 迷いの森 

 第六章   消せない過去と未来への扉  2 



施設を抜け出した後、ジェシカに拾われた紗耶は、市街地にあるダウンタウンに身を潜めた。住んでいた安アパートのある区域から二区画ほど向こうにはスラムが存在するような場所だったが、古い繁華街の端にあったそこは比較的治安は良い地域だったといえよう。

紗耶が世話をしていた赤ん坊はその後、市の福祉施設に引き取られることになった。
その際、このまま母親か父親、又はその親族が見つからなければ、養父母を選定して養子に出されることになるだろうと、ケースワーカーに告げられた。
彼女は何とか子供を引きとめようと抵抗したが、ジェシカの決断ははっきりとしていた。赤ん坊を抱いて悲嘆にくれる紗耶に、ジェシカはこう言ったのだ。
「あたしは母親が名乗り出てこなくても、仕方がないと思っているよ。いや、むしろその方が赤ん坊にとっては幸せかもしれない。こんな小さな子を置き去りにするような母親だからね」
ジェシカは紗耶の腕の中で眠る子供の頭をそっと撫でた。
「この子にはもっといい環境で育つ権利がある。本物ではなくても愛情をたっぷり注いでくれる両親、のびのびと遊べる家や庭。友達だって一杯できるだろう。ちゃんとした教育を受けて、将来は仕事に就いて結婚もして…。
それらは、普通の家庭に生まれた子供ならば、当たり前にできることなんだ。
でもこんな所で暮らしていたのではとてもそんなチャンスも与えてはやれない。そうだろう?」

紗耶は俯いて唇を噛み締めた。
彼女の言うことは尤もだった。
お金があることがイコール幸せに結びつかないことは身をもって知っている。しかし、ここで自分が他人の子供を養うことなど状況的に無理なことは、最初から分かっていたことなのだ。

「あんたは親身になって充分よく面倒を見たよ。本当の母親以上かもしれない。だからこそ、その子のためを思うなら、手放す以外方法はないんだ。辛いだろうけどね」

数日後、赤ん坊は福祉事務所の職員に引き渡された。
その後、彼がどうなったのかは知る由もないが、今もどこかで幸せに暮らしていると信じている。



赤ん坊がいなくなり、体調も落ち着いた頃、紗耶は町外れのダイナーの炊事場で裏方として働き始めた。
ジェシカの知り合いがやっているその店は、昼は食堂、夜はパブを営んでいた。
賃金は安かったが、裏方ならば店の従業員以外と接する必要はなく、他人に顔を見られる心配もない。世間から身を隠したい彼女にはうってつけの仕事口だった。
後片付けに皿洗い、店の掃除など、それまで彼女には無縁だった仕事に、たちまち手は荒れ、足は浮腫んで痛んだが、それでも何とか我慢した。
異国で身分を証明するものを持たず、言葉もカタコトしか話せない彼女にできることなど限られていることは重々承知していたからだ。だから挫けそうになる度に、どんな仕事でもあるだけありがたいと思わなくてはいけないと自分に言い聞かせた。

毎日が食べるだけで一杯一杯だった。それでもジェシカたちの助けもあって、何とか自分の稼ぎで生活していくことができるようになるまでに一年近くかかっただろうか。
その頃には会話もほとんど不自由しなくなり、外に出ることも難しくなくなった。
長かった黒髪をばっさり切り、明るい色に染め始めたのもこの頃からだ。
彼女は過去の自分に決別し、まったく別の人間になりきることを自ら選んだのだ。


そんな紗耶に大きな転機が訪れたのは失踪から3年後、彼女が21歳になったばかりの夏。
頼りにしていたジェシカが事故に巻き込まれ、植物人間状態に陥った時だった。
保険は降りたがとても高水準な医療費を長期間賄えるような額ではなく、すぐにお金は底をついた。
意識が戻らず、自分では呼吸さえできないまま病院のベッドに横たわるジェシカのために、紗耶は身の回りの売れるものはすべて売り払い、僅かにあった貯金まで取り崩したが、それでも支払いは滞っていく一方だ。

支払期日が迫り、万策尽きた彼女が最後に選んだ道は、自分を売ることだった。
それはジェシカが一番嫌っていたことで、常々それだけは絶対にしてはならないときつく言われていたのだが、皮肉にも紗耶にその決断をさせたのは回復のメドが立たない彼女の病状だった。

「それまで働いていたお店は辞めたわ。時間的にも体力的にも両方はとても無理だったし。それにそんな仕事をしている女を…たとえ裏方でも店で働かせたくはないでしょう?」
それまで息を詰めて彼女の話を聞いていた圭市が力なく肩を落とした。表情は強張ったままだ。
「それで君は自分を…身体を売ったのか?」
「高校も満足に出ていない、身元を保証してくれる人もいないような女が手っ取り早くお金を稼げる手段といったら…これくらいしかなかったわ」

店を辞めるとき、理由を知ったオーナーが渋々ながらも口を利いてくれたのは、地元では有名な、マフィアが経営するクラブだった。彼女はそこで表向きはホステスとして雇われながら、裏社会の闇家業に身を沈めた。
支払われる給料は、それまでとは比べ物にならないくらい格段に上ったが、そのお金のほとんどはジェシカの治療費に費やされた。そしてそれはジェシカが他界するまでの約2年間、ずっと続いたのだった。



治療の甲斐もなくジェシカが亡くなった時、紗耶は23歳になっていた。
ジェシカは紗耶にとって家族も同然だった。
施設から逃げ出し、言葉が喋れず右も左も分からない異国で途方に暮れていた紗耶を何も聞かずに迎え入れ、時に慰め時には叱咤しながら支えてくれたのは彼女だけだった。
彼女がいたからこれまで何とかやってこられたのだ。

訳あって家族から縁を切られていたジェシカと、父親や夫から逃れるため、身を隠す必要があった紗耶は互いの境遇を知ったことで特別な結びつきを感じていた。互いに身一つ、頼る人もいない境涯に通じるものがあったのかもしれない。
だが、ジェシカを亡くしたことで、失踪してから初めて紗耶は一人になり、進むべき道の導を失ってしまったのだ。


失意の中で、紗耶は裏家業から足を洗い、クラブの仕事だけに切替えた。
それに伴い月々に入ってくる収入は随分減ったが、それでも大きな出費がなくなったことで目に見えてお金が貯まりだす。
彼女はその金で知り合いになった裏社会の人間を通じて、闇取引で身分証明書となる社会保障番号を買った。足元を見られて、かなりの高額を吹っかけられたが、これからここで生活をしていくためにはどうしても必要なものだったし、既にこのとき、紗耶にはそれを支払うだけのお金の余裕があったのだ。

この時を境に、紗耶は正式に中国系アメリカ人「マリア・リー」を名乗るようになった。
リーというファミリーネームは以前ダイナーに勤めていた時に必要に迫られて適当に考えた名前だ。アメリカ人には中国人も日本人も見分けがつかない。最初に中国系と勘違いされた時に、そのまま自分が知っている中で一番ポピュラーな名前を選んだ。


その後、何度か酒場の仕事も辞めようかと考えたが、なかなかそれを実行に移すことができなかった。ここを辞めても食べるために何か仕事をしなくてはならなかったが、それを探す気力さえなかったのだ。
ジェシカに死なれた今、紗耶は完全に進むべき方向を見失い、途方に暮れていた。なにをする気も起こらず、ただ一日を漫然と過ごすことしかできない状態が続いた。

そんな彼女に転機が訪れたのは、それから暫く経ってから、ホステスとして客の一人を紹介された時だった。




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