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 迷いの森 

 第六章   消せない過去と未来への扉  1 



翌朝、目覚めた紗耶はベッドに一人きりだった。
隣にあるシーツのへこみを触ってみたがすでに温もりはなく、圭市がここを離れてから時間が経っていることが分かる。

紗耶はベッドから起き出すと、部屋の側に備え付けられていたはずのサニタリースペースを覗いてみる。果たしてそこには昔と同じようにトイレとシャワー、それに造り付けの洗面台があった。
熱いシャワーの飛沫が身体にかかると、思わず紗耶は呻いた。昨夜の余韻を残す肌が火照り、ぴりぴりとした痛みすら感じる。最後に男性とベッドを共にしたのはいつだったかさえ思い出せないのに、激しく反応した身体に自分でも驚いていた。

シャワーから出ると、洗面台の上に下着とナイトガウンが置いてあるのに気づいた。どうやら彼女がシャワーを浴びているうちに圭市が用意してくれたらしい。
羽織ってみたガウンは美優のものらしく、裾を引きずるくらい長かった。
手繰ったウエストを着物のおはしょりのように弛ませサッシュで固定して、何とか足首の上あたりまでの丈にすると、彼女は苦笑いする。
「まったくもう、身長10センチの差がこんな所に出るのね」


静かに寝室のドアを開け、あたりを窺いながら廊下に出る。
圭市は出掛けたのか、屋内に人のいる気配はなかった。
昨夜は眠っていたせいで見ることができなかったが、廊下の壁や照明には手が加えられていて、昔の面影を留めてはいるものの、明るくモダンな作りに変わっていた。
他の場所も同様なところを見ると、以前のままで残されているのは紗耶が使っていた部屋だけのようだった。

ゴブラン織りで、どっしりとした重々しいデザインだったリビングのカーテンも、今風の薄くて軽い素材を使った明るい色のものに掛けかえられていて、外の光がふんだんに差し込んでくる。そんな室内は、昔のような陰鬱とした雰囲気は微塵も感じられない。

キッチンや浴室、その他の部屋を一通り見てまわり、最後に入ったのは、紗耶が滞在中はいつもアトリエ代わりに使っていたサンルームだった。
確か記憶では、外に繋がる大きな窓には太い窓枠と桟があったはずだが、細い枠以外は何もない一枚ガラスの窓に変わっていた。
紗耶は、窓に近づくと、鍵を外して外のテラスへと出てみる。
そこには昔と同じように日に焼けて少しささくれたウッドデッキがあり、丸太で作られたテーブルセットが置かれていた。


母が生きていた時には、よくここで食事をしたものだ。
無作法を誰にも見咎められず、好きなように物を食べることができたのは、ここでの食事だけだったのだ。
幼い頃の美優も圭市と一緒にここで食事をしていたのだろうか。好きなものを取り合ったり、嫌いなものを押し付けあったり、もしかすると娘が作った料理やお菓子をここで父親に振る舞ったこともあったかもしれない。

そんな親子のふれあいの場面を思い描きながら、自分がその場にいてその情景を見ることができなかったことを心から残念に思った。
そんな小さな思いでの一つさえ、自分と美優の間には存在しないのだから。



室内に戻ると、以前はイーゼルやキャンバスを立てかけていた壁際の小さな飾り棚に何かが置かれているのに気付いた。
そこにあったのは、数冊のアルバム。背表紙に美優の名前と月日が記されている。
紗耶はそのうち一番日付が古い一冊を手に取ると、表紙を開いた。

それは、生まれて間もない時の美優の写真だった。
まだ髪の毛も生え揃っておらず、小さな手を握り締めたまま顔をくしゃくしゃにして泣いている。
一時だけ自分が世話をしたあの赤ん坊よりも一回りは小さいだろう。
肌の色ももっと赤黒い感じがする。紗耶は、娘の赤ん坊の時の写真を食い入るように見つめていた。その後にも、眠っている時の写真やミルクを欲しがって口を窄めている写真、それに口の端を上げて笑っているように見える写真もある。

「あの子、こんな小さな赤ちゃんだったのね」
アルバムを捲りながら、紗耶が呟いた。
匂いも音も手触りもないただの写真だけれど、18年前のあの時、一度も顔を見ることができなかった我が子にやっと今、触れることができたような気がした。
「ごめんね、美優。こんなお母さんで…何もしてあげられなくてごめんね」


圭市は、何度も指先で写真を撫でながら、声も出さずに静かに涙を流し続ける紗耶の姿をドアの影からそっと見ていた。

昨夜、荷物と車を手配した時に、一緒に屋敷から美優のアルバムも持ってくるよう指示をしておいた。紗耶が本宅に泊まったのは来日した当日一日だけ。
アルバムなど見る時間はなかったに違いないと思い当たったからだ。
娘が生まれた当時、多忙を極めていた圭市は、常に美優の側に付いていられたわけではない。そのため自分が不在の間も娘の成長を見逃さないようにと、房枝にも協力を仰いで、日々できるだけ多くの写真を撮るようにしていたのだ。その膨大な写真を収めたアルバムは10冊以上にものぼる。
それは娘の大事な成長記録だった。

美優の写真を見る紗耶の姿に、圭市もまた胸の痛みを覚えていた。
今でもあの時の彼女に母親としての資質がなかったとは思っていない。むしろ妊娠が判ってからの紗耶は、女としての性よりも母としての母性の方がよほど強かったのではと感じたほどだ。
そんな彼女にとって、美優はこの世でたった一人の、心を許せる血の繋がった家族になるはずだった。
その絆を引き裂いたのは、夫婦の些細な行き違いから生じたボタンの掛け違いだ。その問題に正面から向き合うことなく放置してしまったことだけが、今でも悔やまれる。
二人とも、まだ若かった。特に紗耶はまだ直情的な子供っぽささえ残っていたくらいだった。それ故に互いを認め、許しあうだけの包容力も持ち合わせていなかったように思う。
だが長い月日を経て、二人は年相応の対処ができる人間に成長した。今ならばどんな問題にも逃げることなく正面から立ち向かうこともできるはずだ。


紗耶の注意を引くように、開いたドアを軽くノックする。
圭市に涙を見られないように慌てて頬を拭うと、彼女はアルバムから顔を上げた。
「食事の前に、少し散歩に行かないか」
「散歩?」
紗耶が首を傾げる。
「久しぶりに森を歩きたくなった」



森は昔と変わっていなかった。
大木が鬱蒼とした木陰を作り、その下の遊歩道はたくさんの落ち葉で覆われている。
その小道を18年前と同じように、圭市と紗耶は並んで歩いた。
森の奥の祠は今でも健在で、参拝の人たちの供え物が所狭しと置かれている。
ここは、初めて彼が訪れた時に、紗耶にこの森と祠のいわれを教えられた場所だった。
そこに来た時、圭市は突然立ち止まると、前を歩く紗耶の腕を軽く引いた。
「この祠は10年ほど前に立て直されたんだ。台風で倒木が直撃してね。半壊状態になってしまった」
「そう。昔に比べてきれいになったなとは思ったのよ。そんなことがあったのね」
感慨深げに祠の前に佇んで見上げる紗耶の後ろから圭市が近づく。

「もう一度ここからやり直さないか、紗耶。今度こそ、本当の夫婦として」
それを聞いた紗耶は弾かれたように振り返った。
「過去をすべてなかったことにはできない。それは勿論二人とも分かっていることだ。だが、今の私たちにはまだ、やり直すだけの時間は残されている。そうは思わないか」
突然の話に、紗耶は驚きを隠せない様子で彼を見つめている。
「それに…昨夜、私は何も使わなかった。君がピルを飲んでいるというのならばまったく問題はないだろうが…。
ただ、私はもしそうなれば、それはそれで喜ぶべきことだと思っている。君はまだ若いし、私もまだ何とか現役だ。自分はこんな年になってしまったが、君が許してくれるなら、もう一人くらい子供を持ってもいいと思っている。今度は生まれた時から二親揃って慈しんで育てられる子供を…ね」

美優には「いい年をして」と呆れられるかもしれないが、と小さく笑いながら冗談めかして言い添えた圭市の言葉を、最初は笑って聞いていた紗耶だったが、段々とその笑顔が崩れていく。
そしてとうとうその場にしゃがみ込むと、手で顔を覆って嗚咽を漏らし始めた。

「どうした?」
それを見た圭市が慌てて彼女をのぞき込む。
「もう…もうダメなの。無理なのよ」
「何がダメなんだ?」
顔を覆う手を圭市に無理やり引き剥がされた紗耶は、それでも俯いたまま囁くように微かな声で訴える。

「もう無理なの。私は…私にはもう子供は…産めないのよ」




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