第五章 深く優しい闇に抱かれて 7 別荘に着いたのは深夜2時を回った頃だった。 そのまま運転手を帰らせ、代わりに朝一番でここに自分の車を回送するように手配する。 圭市は、一度は隣りの紗耶を起そうとしたが思いとどまった。目を覚ました彼女が、ここで車を降りるのを拒むことを危惧したのだ。 こうしてぐっすりと寝入っていた紗耶をそっと抱き上げると、彼は別荘の中へと足を踏み入れた。 彼女を抱いたままゆっくりと階段を上り、一番奥の部屋へとたどり着いた圭市は、肘でノブを押さえて体を捩りながらドアを押し開ける。 そこには以前、紗耶が使っていた部屋が当時のまま残されていた。 埃除けのスプレッドを外し、ベッドに紗耶を横たえる。 閉じられた目を縁取る長い睫毛は昔と変わりないが、あの当時枕に広がっていた長い黒髪は、今では顎のあたりで切り揃えられ、明るい茶色に染められていた。 乱れて額にかかった前髪をそっと払うと、彼は大きく息を吐き出した。 彼女の髪を何度この手で梳いたことだろう。 週末だけの逢瀬。ベッドを共にした夜は、こうしてずっと髪を梳きながら彼女が寝入るのを見守っていたことを思い出す。 穏やかな寝息を肌に受けながら感じた愛しさと充足は、あの日を境に彼の元から忽然と消え失せた。それからは、何とかその存在を取り戻そうと、必死で行方を探したが手がかりすらなく、諦めようとしたことも一度や二度ではない。 そんな失意の彼の元に残されたのは、社会に対する重すぎる責任、紗耶を守りきれなかったという後悔と苦悩、そして何よりも大切な、この世にたった一人のわが子だった。 美優がいたから、周囲に何を言われても妻の生存の希望を捨てなかった。 一度も抱かれることなく引き離された娘に、何とかして母親を見つけ出してやりたかった。そして自分も、妻を…家族を取り戻したいというその一心で、今までずっと彼女を探し続けてきたのだ。 圭市は紗耶の眠るベッドに腰かけると、短くなってしまった妻の髪の毛に指を通した。覚えている感触と変わらない柔らかな手触りに、昔の甘やかな記憶が蘇る。彼は思わず紗耶の頬に手を添えると、指先で唇をなぞった。 「ふっ…ん」 そこで初めて彼女は身じろぎをして、薄っすらと瞼を開けた。どこか覚えのある、だがすぐには思い出せない場所。 そして息使いが分かるるほどすぐ側に、圭市の存在を感じていた。 「ここ…は?」 私は、一体何をしているの? 彼女はぼんやりした意識をはっきりさせようと、目を瞬かせた。 薄暗い部屋は、差し込む月明かりで仄かに照らされている。 見覚えのある壁紙に、見覚えのあるベッド。そうだ、この部屋は…。 息を呑む紗耶の耳に、圭市の低く押し殺した声が響いた。 「そうここは…あの別荘だ」 彼女が使っていた部屋は、手を加えられず以前のまま残されていた。 紗耶が失踪した後も、娘と共に時折ここを訪れる圭市は自分に宛がわれた部屋を使ったし、成長した美優も別の部屋を自分用に選んだ。 父娘の間には、母親の部屋は誰にも触らせない大切な場所という暗黙の了解があったのだ。 18年の歳月が経った今、当時のままの壁紙やカーペットは日に焼け、ドレッサーの上の化粧品は中身が干からびて瓶だけが残されているが、誰もそれらを捨てようとはしなかった。 すべて紗耶がいた時のままで残しておきたい。 そう圭市たちが望んだからだ。 「紗耶…」 圭市の長い指が唇を離れ、顎から首筋、そして肩へとなぞっていく。少女の頃より幾分丸みを増したラインを辿る彼の手が震えているのが分かった。 紗耶はベッドに横たわり、彼を見上げたままでその手に自分の手を重ねる。それを見た圭市が歯を食いしばり、搾り出すような声で唸った。 「頼む。嫌なら今すぐ言ってくれ。でないと…止められなくなる」 紗耶にも躊躇いはあった。 18年もの間、憎み続けてきた男に身体を乞われていることに、戸惑いを感じないと言えば嘘になる。だが同時にまた、自らが彼に対して強い劣情を感じていることも確かだった。 圭市と暮らした短い結婚生活の間、紗耶にとって夫とのセックスは子供を持つための生殖行為に他ならず、彼女の意思など関係なく夫婦の義務という大義名分の下で押し付けられたものだった。 普通ならば恋人として、そして夫婦として時間をかけて作り上げていくべき心の繋がりや信頼関係を持てないまま、身体だけを求められた彼女は、肉体的にも精神的にも追い詰められて逃げ場を失っていた。だから本来それらを育むために成される行為が苦痛にしか感じられなかったのだ。 それでも求められるままに、彼に抱かれ続けたのは、長く彼女を蝕み続けた諦めの成せる技だったのかと思う。 だが、一通りの人生経験をした今では、自分が何を欲し、何を望んでいるのかを充分に把握できるようになった。 自分はすでに三十を超えた大人の女だ。 そして、彼女の中の女の業は、圭市を欲していた。 「……いいわ」 紗耶は圭市の腕を掴むと、自分の方へと引き寄せた。 ベッドに倒れこむようにして抱き合う二人の唇が重なる。 剥ぎ取りながら落としていった衣服が、絡まりながらベッドの下で小さな山を作っていく。紗耶は服を脱ぎ捨てるたびに少しずつ露になっていく圭市の姿を見ているだけで、興奮を覚え、身体が潤っていくのを感じた。 そして最後の一枚が床に落ち、二人を隔てるものはすべて取り払われた。 「紗耶」 彼女が遮るものの無い彼の体を両手で抱きしめると、圭市の口から囁きが漏れた。 優しい愛撫や甘い睦言を交わす余裕はなかった。 彼は紗耶の脚の間に体を入れると、すぐにそのままゆっくりと身を沈める。 既に二人はあの頃のように、若さに任せて情熱的に突き進むような年齢ではなくなっていたが、その分辛抱強く互いの体を探りあった。 紗耶の上で動く彼はしなやかに強く、しかも緩慢なほど穏やかにペースを保ち続けながら、次第に彼女を絶頂へと導いて行く。 その間、紗耶はただ圭市の目を見つめ、その中に宿るものを確かめていた。 過ぎ去りし昔、抱かれながらも彼の心がここにないことを思い知るのが怖くて、目を開けることさえできなかった自分。 そんな彼女が長い年月を経て、やっと確かめた夫の瞳の中に見えたのは、自分を求める彼の強い渇望だった。 次第に熱を帯びてきた身体のより深くに引き込もうと、彼女の内が蠢き、それに呼応するように彼もまた、強く自分を穿つ。 そしてその時は突然に訪れた。 紗耶は喘ぎながら小刻みに身体を震わせると彼を強く引き寄せる。そして圭市も彼女の中に全てを吐き出すように大きく体を痙攣させると、呻きながら彼女の上に倒れこんだ。 二人はしばらく抱き合ったまま、ぐったりと横たわっていた。部屋は夜のしじまに満ち、二人の荒い息づかいだけが響いている。 圭市は動けるようになると彼女の上から体をずらし、無言で足元にあったシーツを引き上げて、二人の体を覆った。 少しずつ呼吸が穏やかになり、やがて耳元で彼の穏やかな寝息が聞こえ始める。 紗耶は彼の胸に顔を埋めながら、静かにそれに耳を傾けていた。 何度も彼に抱かれた部屋で、昔よりも穏やかな気持ちで寄り添っていられることが不思議に思える。 ただ、あの頃と違うのは年月を経て大人になった自分と、圭市が同じように年を重ねて忍耐力と包容力を身に付けた男になっていたことだろうか。 そんなことを考えつつも、規則正しい彼の鼓動にひきこまれるように、紗耶もゆっくりと眠りに落ちていく。 窓の外に広がる深い夜の闇が、そんな二人を静かに優しく包み込んでいた。 HOME |