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 迷いの森 

 第五章   深く優しい闇に抱かれて  6 



圭市たちが向かった先は、都内の閑静な住宅地の一角にある、老舗の料亭だった。
重厚な門をくぐるとすぐに本館の玄関があり、その先の園庭を挟んだ奥にいくつかの独立した離れが設えてある。彼は、その静かな佇まいの奥座敷を予約していた。

すべての料理を先に並べてもらい、仲居が退くと、そこは閉ざされた二人だけの空間になった。
紗耶は側に置いてあった氷の入った桶からよく冷えた酒を取り出すと、二つの切子の猪口に注ぐ。酒は和食に合うように、日本酒の冷酒を頼んでいた。

「たまにはこういう食事もいいかと思ってね。美優がいると、どうしてもメニューが洋食に偏ってしまう」
「こんなに本格的な日本料理は久しぶりよ。嬉しいわ」
そう言って紗耶は、目の前の彩りも美しい懐石膳を心行くまで見つめる。
そして暫くしてから、作法どおりに箸を取り、料理をゆっくりと口に運んだ。
長く海外に暮らしていたと思えないほど美しく、板についた箸の運びに、思わず圭市は飲みかけの猪口を手にしたまま彼女を見つめていた。

「圭市さん…?」
自分の手元を見たまま手を止めた様子に、彼女が訝しげな顔をする。
「どうかしたの?」
「いや、美優が…あの子がね」
「美優が何か?」
「昔から箸が苦手でね。小さいときには、物が掴めなくてよく癇癪を起こしていたものだ。私や房枝さんもいろいろと教えたんだが、どうしても上手に使えなくてね。
あの負けず嫌いの性格だ。それが悔しくてたまらなかったらしくて、皆を招いた祝いの席で、泣きながら塗りの箸を放り出してしまったこともあったな」
あれは確か七五三の祝いの時だったかと、思い出して苦笑する圭市に、紗耶もその場を想像して笑いをかみ殺す。
「塗りのお箸なんて、小さな子供には無理よ。大人でも小さなものを掴むのは難しいのに」

紗耶の箸使いは、作法に厳しかった祖父と、その意向を受けた当時の養育係に仕込まれたものだ。小学校に上る前に房枝が来てからは、もっと大らかに食事ができるようになったが、それまでの彼女はご飯を楽しく食べたという記憶がない。はっきり言えば、食事が苦痛だった。
だから普通なら食べ盛りの時期なのに食が細くなってしまったのだ、といつも房枝が嘆いていたのを思い出す。

「それがトラウマなのか、今でも和食は苦手なようだ。人目のないところでは、箸をこっそりフォークのように握り、思いっきりぶすっと食べ物を突き刺しているのを何度も見たよ。今でも豆腐はスプーンで食べているようだし。困ったものだ」
それを聞いた紗耶がついに笑い出す。
「デート中に彼氏の前でうっかりと、そんなことをしなければいいのだけれど。好きな女の子に目の前でそれをされると、百年の恋も冷めてしまうわ」
「あれのことだ。デートの食事にわざわざ和食は選ばんだろう。今夜も何を食べていることか」
「あら、今日はお友達と打ち上げではないの?」
圭市は手にしていた猪口をぐいと傾けた。
「ならばいいが…」

美優が彼の思いを察して気を利かせてくれたことには気付いていた。
だからあの場に柏木を残したのだ。
あの男なら、例え美優が暴走しても、つられて間違いをおかすことはないという確信が圭市にはあった。

まだ確定ではないが、将来娘が柏木をパートナーに選ぶ可能性を考えて、彼は若い秘書に最大限の目をかけている。入社間もない柏木をすぐに社長専属の秘書に抜擢したのも、できるだけ自分の側に置いて仕事を覚えさせ、環境に慣れさせるためだ。
ややもすると特別扱いともとれる処遇に、周囲はやっかみ半分、同情半分な反応をしたようだが、柏木はそれにまったく動じなかった。
あれくらいの冷静さと慎重さがなければ、美優のような直情型の娘に振り回されてしまい、到底太刀打ちできまい。
そこが圭市が柏木を後継候補として見込んだ大きな理由の一つだった。

諦めのこもった様子で、娘の過去の数々の武勇伝を語る圭市を見ながら、紗耶は我知らずに笑っていた。
その口調や表現の一つ一つに、娘を思う父親の愛情が滲み出している。そのことに圭市は気付いていないようだが、親の愛情に飢えた子供時代を送った彼女には、彼の美優に対する思いやりが言葉の随所に感じられた。


彼は18年前とは変わった。
あの頃は、自分の夫がこんなに穏やかに笑える人だなんて知らなかった。こんなに家族に愛情を注げる人だとも思っていなかった。実際、そう思えるほど親しく触れ合う時間は、ほとんどなかったのだけれど。
そこで紗耶はふと気付いた。
否、変わったのは私の方だ。
まだ心が大人になりきれていなかった私は、押し付けられた状況に抗うのが精一杯で、相手をよく見る余裕さえなかった。殻に籠もり、自分を守ろうとするあまり、周りが全く見えなくなっていたのだと、今ならば分かる。
そう、彼が変わったのではなく、私の方が彼の人となりに目を向けることができるようになったのだ。

18年前、私は彼の本当の姿を見ていなかった。そして恐らくは、彼にも私の思いが見えていなかった。

だからあの悲劇は起きた。

だがそれは起こるべくして起きたことなのかもしれない。
離れて過ごした時間がなければ、自分はまだ圭市を許せなかったかもしれないし、彼の真摯な気持ちに気付くことができなかったかもしれない。自分の力で苦労してここまで這い上がってくる過程で、人の苦しみを思いやる術を知ったからこそ、色々なものが見えるようになったことは違いないのだ。
もしも自分にあの経験をするチャンスがなかったら、閉ざされた世界の中でもがき苦しみながら死んでいった母親と同じように、自壊の道を歩んだかもしれない。

ただ一つだけ後悔があるとしたら、あの時もっと互いに思いやる気持ちを持つことができていたなら、18年もの間、家族に無意味な空白を作ることはなかっただろうということだ。
自分たち家族の指の間から零れ落ちた貴重な時間は、もう永遠に取り戻すことができない。


箸を置いて、空になった圭市の手の中の猪口に冷酒を注ぐ。
「二人で…こんな時間が持てる日が来るとは思っていなかったわ」
「そうだな」
少ししんみりとした口調で言うと、圭市が注がれた酒に目を落す。

「長かったな。18年は」




二人が店を後にした時、すでに時刻は11時を回っていた。
馴染みのない日本酒を口にした紗耶は、少し酔いが回っている様子だった。
「ごめんなさい、ちょっとお酒が過ぎてしまったみたい」
「少し休むといい。着いたら起してあげるから」
小さく頷くと、すぐに紗耶は圭市の肩に頭を預けて寝入ってしまった。

「行き先を変更してくれ。このまま別荘へ向かう」
圭市は運転手にそう指示すると、携帯で自宅にも連絡を入れる。
電話に出たのは、房枝ではなく美優だった。
「お父様?」
「これから紗耶を連れて別荘に向かう。今夜はそっちに帰らないからと房枝さんにも伝えてくれないか」
「わかったわ。そう…それじゃ、お母様と、上手くいったの?」
「まだ分からない。まだ何とも言えないよ」
「もう一押しよ、頑張って、お父様!」
娘の興奮した声に、思わず苦笑いする。
「ありがとう、美優。分かったから、お前も早く寝なさい」
「ふふふ、お父様は、ごゆっくり。ただし、もうお年なんだから、あんまり無理しちゃダメよ〜」
語尾を延ばしながらそう言って、笑いながら電話を切った娘に、圭市は溜息を漏らす。
「親をからかうとは。まったく、口だけは一人前だな」


温もりを求めて無意識に擦り寄る紗耶の肩を抱きよせながら、圭市は表情を引き締める。
彼女は嫌がるかもしれないが、それでも彼はあの場所へ、破綻を招いた悲劇の原点へと戻らなくてはならないと思っていた。

18年の空白を経て今、二人を乗せた車は、夜の高速を走り、一路別荘を目指す。
あの日、若かりし二人の思いがすれ違い始めた……あの場所へ。




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