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 迷いの森 

 第五章   深く優しい闇に抱かれて  4 



「マリア・リー…か」
手の中にある書類を見ながら、圭市が呟く。
すでに時刻は深夜に近い。
結城家の本宅にある彼の書斎の周りにも人気はなく、屋敷は静まり返っていた。
圭市が手にしているのはアメリカから取り寄せた紗耶の…マリア・リーに関する報告書だ。



紗耶らしき人物が見つかったと外務省から極秘に知らせがあったのは一月半ほど前のことだ。
あれだけ何年も探したにも関らず、杳として行方が分からなかった妻の突然の出現に、圭市は俄かにはその情報が信じられなかった。それも、彼女自らが現地大使館に出頭して身分を明かしたというのだ。


紗耶が失踪した当初、周囲は彼女が誘拐されたのではないかと考えていた。
当時、結城グループはアメリカではまださほどネームバリューのある会社ではなかったが、それでも海外数箇所に現地法人を持つ多国籍企業だった。事情を知る者に、身代金目的で誘拐された可能性があったのだ。
だが、幾ら待っても犯人からの接触はなく、それを匂わす兆候も出てこなかった。
もちろん、あらゆる可能性を考えて、秘密裏にFBIも動いていたが、彼らも3ヶ月もすると、「事件性はない」という結論を出してきた。それも「本人の意思による失踪の可能性が高い」という付帯意見まで添えて。

義父、宗一朗の突然の引退により、結城の事業を一手に担うことになった圭市は、アメリカに長期滞在することができず、何度も日本と現地を往復しながら彼女の行方を捜した。
しかし、なかなか手がかりすら掴めず、雇った探偵たちからは、何某かの事件や事故に巻き込まれ、人知れず身元不明のまま死んでいるのではないかという絶望的な声すら上ったくらいだ。
それでも圭市は、彼女がどこかで生存しているという希望を捨てきれなかった。
だから失踪から十年余りが経った後、親族たちは死亡宣告の申し立てをするように勧めてきたが、彼は絶対に首を縦に振らなかったのだ。
それがここに来て、急に本人が現れた。
実際のところ、妻が見つかった喜びよりも、「なぜ今になって」という疑問の方が先に立ったというのが正直なところだった。


その後、さまざまな審査と検査を経て、彼女が正真正銘の「結城紗耶」であることが確認された。
あちらでは、偽造された社会保障番号を使い、中国系アメリカ人、マリア・リーと名乗っていたことも分かった。
外務省からその連絡があった直後、圭市は現地の探偵事務所に、彼女の経歴と素行の調査依頼を出したのだ。


圭市は、届いた報告書に目を落す。
彼女が「マリア・リー」として初めて表舞台に現れたのは、今から10年ほど前。
ダニー・フェインという画商が経営する画廊のマネージャーとして採用された時からだった。
その少し前に、彼女はフェインの伝手で美術系のカレッジに入り、学位を取得したことも分かっている。
当時、フェインと彼女は個人的な付き合いがあり、その関係は数年前から続いていた。表向き、二人は経営者とマネージャーだが、彼らが私生活の上でもパートナーだったことはすぐに調べがついた。

相手の男はすでに60代半ば、まだ20代前半だった紗耶とは40歳以上の年齢差がある。
食べるために止むを得なかったのか、それとも他に何か理由があったのか、そのあたりは定かでないが、一時とはいえ、自分の妻が父親よりもはるかに年上の男に身を委ねるような生活をしていたのかと思うと、圭市は込み上げてくる怒りと失望を抑えられなかった。


7年前に彼が他界し、現在紗耶が経営している画廊は買い取る形で彼女がフェインの親族から譲り受けていた。
そして、後に彼女の画廊の名を一躍有名にしたのは、紗耶がオーナーになってから見つけ出した新鋭画家の人気に火かついたことからだった。


一地方都市の個人経営の画廊は、彼女が発掘し、育てた無名の画家たちの活躍により評判を取り、世間にその名を知らしめた。
今ではニューヨークにも支店を構えているほどの盛況ぶりだ。

その画家たちの筆頭に挙げられるのが、今、紗耶とともに日本に滞在しているエドワード・ウォレンだった。
紗耶が彼を見つけたのは、ウォレンが糊口を凌ぐために自分が描いた絵をストリートで売っていた時で、彼女は即座にスカウトして、そのまま自分の画廊へ連れて行った。そして、生活の面倒の一切をみながら彼を一端の画家に育て上げ、世に送り出したのだという。

やがてウォレンは頭角を表し始め、アメリカのみならず、ヨーロッパの画壇でも認められるようになった。そして今では作品は描く側から売れていき、かなりの高値がつく人気画家へと伸し上がった。

その後も紗耶は、次々と無名の画家たちを自ら発掘しては売り出し続け、今では彼女の経営する画廊は、本支店合わせてかなりの収益を上げるまでになっている。
紗耶自身もやり手のオーナーとして、その世界では名の知れた存在だという。

ふと、報告書を捲る圭市の指が止まった。
紗耶はアメリカで手がけたビジネスが成功を収め、金銭的にも裕福な実業家となっている。それなりのステイタスも得ていると考えてよいだろう。
では、なぜ今ごろになって、その地位や暮らしを失う危険を冒してまで日本に舞い戻ってきたのだろうか、それも18年間もの沈黙を破って。
彼の勘が釈然としないものを訴える。
彼女の帰国の裏には何かがある。何かが…。


気を取り直して再び読み始めた次のページは、紗耶が「マリア・リー」として過ごした年月の、私生活の部分についての報告だった。

マリア・リーのプライベートは、その多くが謎に包まれていた。
ビジネスに関する以外の社交の場にはほとんど姿を見せず、出自や家族は一切明らかにされていない。
画廊の経営はすべて自分で仕切り、フェインの死後には共同経営者すら存在しなかった。
彼女は完全な一匹狼だった。
本店のある地元とNYにアパートメントを持っているが、そこにはほとんど人の出入りはなく、彼女自身も寝るために帰るだけといった具合だったらしい。
ここ何年かは時々長期の休暇を取っているが、それまでの彼女は、朝から深夜まで画廊に詰めたきりで、ろくに休日さえ取らないような生活を送っていた。

そしてマリア・リーが紗耶と判明した今、一つの大きな疑問が出てきた。
紗耶が失踪したのは18年前のことだ。そしてマリアが現れたのは、十数年前。
その間数年分は完全な空白で、その間に一体彼女がどこで何をしていたのかはほとんど不明だった。
どの探偵もその部分に関しては調べがついていない。
中に一件だけ、フェインと知り合う直前のマリアについての情報があったが、それも信じがたいものだった。彼女は一時、マフィアの経営する店でコールガールのようなことをしていた時期があったというのだ。
他にもストリートに立って客を取っていたという噂もあったようだが、それらについては裏が取れていない。

しかも驚いたことに、失踪から画廊を切り盛りするようになるまでの10年余り、彼女は以前に入っていた施設があった地方都市のすぐ側で暮らしていたことが分かった。
彼が四方八方手を尽くして探した場所。やはり紗耶はあそこにいたのだ。

彼女がどうやってこちらの追手の追跡から逃れたのか。圭市には不思議だった。
当時、あの土地には誰一人知り合いはいなかったはずだ。まだ十代だった女性が、たった一人で、金も持たずにあんな所に長く潜んでいることはまず不可能に思えた。
やはり噂どおり、彼女は裏社会に囲われていたのだろうか。身を隠す代償として自分の身体を切り売りしながら。


圭市は額を擦りながら目を閉じた。
そこまでして紗耶が自分を拒んだことに、彼は強いショックを受けた。

深窓の令嬢として育ち、金の苦労などしたこともないだろう紗耶が、生きるために身体を売ったかもしれないとは。
それほど彼の元へ、日本へ戻りたくなかったのか。

昔の紗耶からは想像もできない話だった。
空白の数年間に、紗耶の身に一体何が起こったのか。
それを考えただけでも恐ろしく思えた。





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