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 迷いの森 

 第一章   帰郷  3 



結城の本宅は、古くからの邸宅が立ち並ぶ閑静な住宅街にある。
この地区でも近隣にマンションが建ち、道路が整備されて少し街の雰囲気が変わっていたが、緑に囲まれた屋敷の周囲は昔と同じ佇まいを保っていた。


重厚な門を抜けた車が、彼女の記憶どおりの玄関前へと横付けされる。
圭市に促されて車から降りた紗耶は、18年ぶりとなる我が家を仰ぎ見た。
戦火を逃れた古い母屋の向こうに、彼女の母親のために建てられた離れの洋館の屋根が垣間見えた。

「ここは、変わっていないのね」
感慨深げに周囲を見渡す彼女を、圭市は玄関の引き戸の前で待っていた。
「外観はほとんど変えていないが、中には手を加えた。今は皆、この母屋で生活しているからね。離れは…君のアトリエはそのまま残してあるよ」
「そう…」
紗耶は遠い目をしてただ一言そう答えると、重い足取りで玄関へと向かう。
そこに勢ぞろいした使用人たちの中にも、何人か見た顔があることに気付いた。

「お帰りなさいませ」
先頭で出迎えたのは、かつて彼女と共に離れの洋館で生活していた家政婦の房枝だった。
当時房江は30代後半、今は50代半ばくらいになっているだろう。彼女は紗耶の姿を見るなり双眸から涙を溢れさせていた。
「帰りました。あなたもお変わりなくて」
差しさわりのない返事を返した紗耶は、今一度目の前の女性に目を向けた。
頭を垂れた房江は記憶にある姿よりも小さくなり、白髪が目立ち、実際の年齢以上に老け込んだようにも見えた。
彼女にも気苦労をかけてしまったのかもしれない。紗耶はそう思った。


房枝は紗耶の母親が若くして他界した後、彼女を育ててくれた女性だ。
離れには房枝の他に数人の使用人が生活していたが、紗耶の身の回りの世話をしてくれたのは主に彼女一人だった。
学校の入学準備も、誕生会の計画も、旅行に同行したのも、父親ではなく彼女だ。紗耶が初潮をむかえた時には、彼女がその注意や始末を教え、ささやかにお祝いをしてくれた。
あの当時の紗耶にとって、房江は使用人ではなく、母親代わりだった。
だが、結局彼女も紗耶を助けることはできなかった。孤立無援となった紗耶に、最後まで房枝から救いの手が差し伸べられることはなかったのだ。
今だからこそ、主従関係の重さから房枝が父親や圭市に逆らうことができなかったことは理解できるが、その当時の紗耶にしてみれば、信頼を裏切られたというショックは大きかった。
そのことが尾を引き、今の対面の温度差となって両者の間に蟠っていることは、互いに分かりすぎるほど分かっているはずだった。



母屋の内装はモダンな雰囲気に全面的にリフォームされ、あちこちに手が加えられていたが、間取りは以前と同じだ。
紗耶は、このまま一度会社に戻るという圭市と別れ玄関を上ると、記憶を頼りに最初に仏間に入り、仏壇に手を合わせた。
昔から変わらない大きな仏壇が、埃一つなく据えられている。
太い梁に掛けられた遺影を見上げながら、紗耶は写真の中の母が今の自分よりもはるかに若いということに感慨を覚えた。

お母さん、私もう35になったのよ。不思議な感じでしょう?
ここを出た時にはまだ17歳だったのに…。

「お嬢様、お茶の用意ができています。こちらにおいでくださいませ」
房枝に呼びかけられて仏間を後にした紗耶は、居間に通された。
「房枝さん、この年になって今更お嬢様はおかしいわよ」
昔からの癖で、つい彼女は紗耶を「お嬢様」と呼んでしまうようだった。紗耶の方も房枝からそう呼ばれると、悪さをしてしかられていた子供の頃ような、気恥ずかしさを感じてしまう。
「それでもお嬢様はお嬢様ですから。ですが、今ここでは紗耶様のお子様が…美優様がお嬢様と呼ばれているのですよ」

その話しぶりから、現在美優の世話をしているのは彼女だと気付いた。
どうやら房枝は、自分と娘、母子二代の育ての親代わりをすることになったようだ。
それから彼女は取りとめもなく、美優のことを話し始めた。
幼稚園から高校まで、紗耶と同じ私学の女子校に通ったことや、成績が優秀で、このままいけば私立の名門大学に推薦入学できそうなこと。3歳から始めたピアノはレッスンを嫌がって、結局は習うのを止めてしまったが、バレエだけは今でもずっと続けていること。そのバレエは近々発表会があり、現在厳しい稽古の真っ最中だという。
その他にも、食べ物の好き嫌い、好きな映画や音楽、気になる男性のこと等々。

驚いたことに、話の中に出てくる圭市は娘の学校の行事の際などに、時間の都合がつけば必ず自分が出向いているようだった。紗耶の父親が子育てを放棄し、全て他人任せにしていたことを思うと、圭市は彼なりに娘のことを考え、気にかけているのだということが伺えた。
少なくとも、美優は自分の子供の頃のように寂しい思いはしなかったらしいことを知った紗耶は、少しだけ胸のつかえが取れたような気がした。


それから二時間ばかり過ぎた頃だろうか。入口の方で人の気配がした。
「帰りました。お母様?」
学校から帰ってきた美優が、室内に母親の姿を見とめるや否やカバンを投げ出し駆け寄ってくる。
「お帰りなさいませ。ほらほら、荷物を置きっぱなしですよ、お嬢様。はしたない。そんなことではお母様に笑われてしまいますよ」

房枝は小言をこぼしながら困ったものだという顔で、紗耶に抱きつく美優を見ている。
「後でちゃんと片付けるから。それより良かった、お母様がここにいらして。急いで帰ってきた甲斐があったわ」
改めて間近で見る娘は、すでに紗耶の背丈を越えている。すらりとした体つきは父親譲りだろうか。顔は…面立ちは自分に似ているようだが、目元や口元は圭市にそっくりだった。

自分と圭市の血を受け継いだわが子。
屈辱と悲哀と、諦めの日々の中で育んだ小さな命ではあったが、何とここまで美しく力強く育ってくれたことだろう。

「ちょうど良かったわ。あなたの顔をみたら帰ろうと思っていたところだったの」
紗耶の言葉に、美優が驚いた顔をする。
「帰るって、ここはお母様の家なのに。みんなお母様が帰ってくるのを待っていたのよ。それにほら、お父様だって…」

娘が指し示す先を見た紗耶の顔に思わず緊張が走った。
入口で、圭市がドアの枠にもたれるようにしてこちらを見ていたのだ。
紗耶の拒否反応を敏感に感じ取った美優は、慌ててとりなすようにソファーに座る母親の前に膝立ちになると、その顔を見上げた。
「ここが嫌なら、離れかとか。それか、ほら、森の別荘でしばらくゆっくりとしてきたらどう?」
「森の別荘?」
「お父様とお母様が新婚時代を過ごしたところでしょう?私たち、今もちゃんと毎年使っているのよ」
「え?ええ、そうね…だけど」

「お母様には是非ここに泊まっていただきましょう」
事情を知る房枝が気まずい雰囲気を打ち消すようにそう言い切ると、美優を部屋の外に急き立てた。
「それよりも、お嬢様、早くお仕度をなさらないと、バレエの大事なレッスンに遅れてしまいますよ」
「ああ、いけない。もうそんな時間なの?お母様、私が帰ってくるまで絶対ここにいてね。必ずよ。ではお父様、行ってきます」


房枝と共に部屋を後にする美優の軽い足音が聞こえなくなると、紗耶はがっくりとソファーに沈み込んだ。
「結局あなたの思惑通りになってしまったみたいね」
「私ではなく、美優のだろう。あの子が一旦言い出すと逆らうことは不可能だ。いつもあの勢いで周りを巻き込んで、最後には自分の意見を押し通してしまう。
「誰に似たのか」と溜息混じりに呟きながら、圭市はゆっくりとこちらに歩み寄ると、紗耶の対面に腰を下ろした。

空港では分からなかったが、彼のこめかみにも白いものが混じり始めていて、目尻や額には昔はなかった深い皺が幾本も刻まれていることに気がついた。
彼にとっても18年は長い年月だったのだろうか。
その間に何を考え、どう過ごしていたのか。
聞いてみたいことは山のようにあったが、彼女の口をついて出た言葉はそれとはまったく関係のないものだった。

「でも驚いたわ。まだあの別荘を手元に残していたなんて。悪趣味なのね」
「悪趣味とは聞き捨てならないな。あそこは君と私が短い結婚生活を過ごした唯一の場所だ。それに、あの子を、美優を授かった大事な場所でもある」
彼のその言葉に、紗耶は思わず身を強張らせた。
「あれを授けたなんて、綺麗事は言わせないわよ、少なくとも私にとっては。
あそこには何一つとして良い思い出はないわ。あなたがあの子にどう話しているのかは知らないけれど、私には悪夢としか思えなかった」

思い出したくもないという口調で語る紗耶の顔が、過去の苦痛に耐えるように歪む。
「それは考え方の相違だ。一度、二人だけでゆっくりと話し合う必要があるな」
彼女の様子を見た圭市は、苦々しい表情でそう言い置くと立ち上がり、戸口のほうへと向かった。そして、ドアの前で立ち止まり、彼女を振り返ることなくこう言い残した。
「今は一時休戦しようじゃないか。いずれまた、改めて話し合おう。ただ、それまでは美優の前で軽はずみなことを口にするのはやめてくれ。あの子は…何も知らないんだ」




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