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 迷いの森 

 第五章   深く優しい闇に抱かれて  3 



日本に戻ってきてから、紗耶は連日精力的に動いた。
主には結城の関係先への挨拶や、弁護士、会計士たちとの打ち合わせだったが、その他にもこちらの美術商や画廊の経営者と懇談して、アメリカで自分が抱える若手画家たちの絵を売り込むのにも余念がない。
そのほとんどの席に、圭市の秘書である柏木が、運転手兼臨時秘書として随行した。

最初のうちは、若いお目付け役かと煩わしく思っていた紗耶だったが、柏木の秘書としての有能さを認めると、自分の方から進んで彼に様々な用事を頼み始めた。
その中にはプライベートに関するものを含まれていたが、もちろん、彼女なりに思うところがあってのことだ。
将来娘を任せられるだけの器がある人間なのか。
紗耶は何気なさを装いながらも、じっくりと側で見極めていたのだ。


「柏木さん、明日はオフだから、こちらには来なくていいわ」
「ですが紗耶様、外出の時はどうされるのですか?」
柏木は彼女のことを「紗耶様」と呼ぶ。
最初は「奥様」とか「社長夫人」と呼んでいたのだが、呼びづらそうだし、紗耶の方もそう呼ばれると何となく落ち着かない。そこで名前で呼ぶよう頼んだためだ。

「久しぶりに地下鉄に乗ってみるのもいいかなと思っているのよ。学生のとき以来だけど、迷子になることはないと思うわ。いざとなったらタクシーもあるし」
「畏まりました。では、もし遠方に外出されるご予定の場合はお知らせください。私も明日は社の方におりますので」

確かに柏木は有能な青年だ。すぐに紗耶もそれを認めた。
若手の秘書の中で、一番自分が目をかけている柏木を遣すということは、圭市なりの心配りなのだろう。その他にも、公式行事の同伴や、結城の関係者への紹介時には必ず圭市本人が付き添うなど、彼の気遣いは細部にわたった。
それは親子で過ごす時も同じで、圭市と紗耶は一緒にプライベートな時間を持つ時には、できるだけ美優を伴うようにしていた。
三人で食事をしたり、時には気を利かせた圭市が自分は場を外して母娘二人でショッピングに行かせたりすることもある。
最初は遠慮がちだった美優も、すぐに母の存在に慣れたようで、両親が並んで歩く姿を嬉しそうに眺めている。

紗耶から見た圭市は、文句のつけどころがないほど愛情溢れる父親だった。
もちろん、彼自身多忙な身だったのだろうから、いつも娘と一緒にいられたわけではないだろう。だが、それでも時に厳しく、時には甘やかしながらも美優をしっかり躾け、常識をわきまえた女性に育ててきたことは二人の様子から感じられた。
自分自身、父親とふれあう機会が皆無に近い子供時代を過ごしてきた紗耶にとって、それは何よりも大切なことに思えた。
ましてや、自分が娘に対して何もしてやれなかった分、圭市が愛情を注いで育ててくれたのだと思うと、彼に感謝する反面、心苦しささえ感じてしまうのだ。
そんな光景を目にするたびに彼女は思った。
自分が娘のためにしてやれることは、もうそんなに多くは残っていないのかもしれない、と。


「柏木さん」
紗耶は、予定を終えて帰ろうとする彼を思わず引き止めた。
「あなた、美優のこと、どう思っていらっしゃるの?」
その唐突な問いかけに、柏木は驚いたように目を丸くした。
「美優様のこと、ですか?」
「ええ。あの子があなたを慕っていることは私も知っています。あなたも薄々は気がついていたでしょう?でも、正直なところあなたの方はあの子をどう思っているの?」

答え辛い質問をしていることは重々承知だ。
仮にも彼にとって美優は上司の、それも社長の娘であり、しかも将来の結城グループのトップを配偶者に迎えなければならないという立場にある。普通の若者が衝動だけでおいそれと交際を持ちかけられるような、軽はずみなことは許されない境遇だ。
それは彼が結城のトップにいる圭市の側に仕える身だからこそ、分かりすぎるほど分かっているはずだ。

「今の時代、恋愛は自由だけれど、それ以上の関係を求めると当然柵も出てくる。あの子には、好むと好まざるとに関らず負わなくてはならない義務があるの。もちろんきれい事では済まされないこともたくさんあることは、あなたもご存知でしょう?
いざとなった時、あなたにはあの子と一緒に、いえ、あの子の盾となってそれらを全て背負い込む覚悟はできているの?」
柏木は暫く押し黙ったままだったが、やがて意を決したように言葉を口にした。
「今の私では、まだまだ力不足だと思っています。ただ、美優様が…本気で私を側にとお考えでしたら、どんな困難にも向かっていく覚悟はできております」
「それは美優があなたの上司の娘だから、言われたら逆らえないということ?」
「いえ、違います。私があの方自身を、一人の女性として…望んでいるからです」
慎重に言葉を選びながらも、彼は自分の気持ちを明らかにした。
「それはあなたの、あなた自身の意思なのね」
「そう思っていただいて、結構です」
「そう、分かったわ」
紗耶は、真っ直ぐにこちらを見返す彼の目をしっかりと見据えた。
「では、あなたに一つ言っておきたいことがあるの。
これから先、いろいろなことが起きるはずよ。多分あなたに対する妬みややっかみも出てくるだろうし、美優が周囲からいわれのない中傷を受けることもあるでしょう。いつ何時そうなっても動じることなく、どんな状況でもあの子を守ってやれるように…今からその覚悟をしておいて欲しいの」

言葉の意味が分からず彼が怪訝そうな顔をしたのが分かったが、紗耶はそれだけ言うと、小さく息を吐き出して柏木に背を向けた。

「では、失礼いたします」
それ以上何も語らない紗耶に、話は終わったと悟った柏木がドアノブに手をかけた。
「柏木さん」
「はい」
再び呼ばれて振り返ってはみたが、彼女はこちらに背中を向けたままだった。
「ありがとう。美優を…娘をお願いね」
「…はい」
そう一言答えて部屋を出て行く柏木の気配が消えた後で、紗耶はやっとドアの方へと振り向いた。
すでにそこにない青年の姿を思い浮かべながら、彼女は一人物思いに耽る。
どうやら娘は期せずして、相思相愛の相手と巡り合うことができたようだ。美優が将来の伴侶として彼を選ぶなら、二人は良きパートナーとして、揺ぎ無い人生を共に歩んで行けるだろう。

「幸せになりなさい、美優」
人気のない部屋で、紗耶は小さく呟いた。
誰よりも娘の幸せを願う母の思いが込み上げる。例え子供を産み捨てたも同然のひどい母親であっても、否、だからこそ、その思いは何よりも強い。
娘は幸せになれる。
これで母や自分に降り懸かったような、不幸の連鎖は断ち切れたのだと思いたかった。


− ◇・◆・◇ −



「お母様、こっちの方が絶対に似合うと思う」
数日後、紗耶は娘と連れ立って買い物に来ていた。美優の発表会に着る服を探すためだ。
彼女が持っているスーツは、シックな黒やチャコールグレーといったビジネス仕様のものばかりで、どれも華やかな娘の発表会に着るにはそぐわない。
派手なものとなると、夜会用のカクテルドレスを持って来てはいたが、主役を差し置いて、そこまでドレスアップするのは場違いに見えるだろう。
子供の発表会にはどんな服装で出向けばよいのか、経験のない彼女には皆目見当がつかなかった。そこで美優に意見を聞くことにしたのだ。

美優は紗耶の話を聞くと、すぐに母親をショッピングに連れ出した。
高級な婦人服店が並ぶ都内の一角。
自分の服を選ぶのにこんな所に来ることは滅多にないが、母のこととなると自ずと気合が入る。
いつもなら縁がない場所と見向きもしないようなミセス向けのショップへと紗耶を連れ込むと、次々と似合いそうな服を見繕っては試着室にいる沙耶に持ってきた。

何着か試着した中で、美優が一番強く勧めたのは、淡いラベンダー色のスーツだった。
装飾が少なく、すっきりとしたデザインと布地の鈍い光沢が上品な雰囲気を醸し出している。これにレースのついたインナーを合わせると、落ち着いた雰囲気のシックな装いとなった。

「絶対にこれ、これがいいわ」
「そう?」
その押しの強さは店員顔負けで、紗耶は苦笑しながらその服を買うことに決めた。
レジでカードを切りながら、まだ店内であれこれ母のものを見ている美優の姿に昔の自分を重ねる。
私があの子くらいの年齢だった時、果たしてこれほどしっかりとした意見を持ち、自分の考えを主張する術を知っていただろうか。

祖父からは、考えを顔に出すことは即ち敵に次の一手を悟らせることにもつながる、と教えこまれてきた。
常に周囲に造反の気配を感じながら生活しなければならない結城の総領は一瞬たりとも気を抜いてはならないと。
周りは常に味方ばかりではない。
どんなときにも感情や思いを表に出さないよう、幼い頃から厳しく躾けられたが、それはすべて結城という家を将来担う者が背負うべき義務だと思っていた。
それもあって紗耶自身、喜怒哀楽を表現することが苦手な子供だったし、父親もあえて彼女にそれを求めることはなかった。
だが、美優を見ていると、そんな考えは無用の長物に感じられる。
しっかりとした後ろ盾があれば、子供は我が身を守るために感情を押し殺す必要はない。それは自分には縁のなかった「親の愛情」という裏打ちがあればこそのものだろう。

自分と自分の母親が舐めた辛酸を、娘に味合わせてはならない。
その思いに突き動かされて帰国した紗耶だったが、三代続いた跡取り娘はようやく美優の代で結城の家という呪縛を解かれていたことに安堵した。
それにはやはり圭市が一人で親の大役を果たした功績が大きかったのだということを、再度認識せざるを得なかった。



後日、紗耶は一人で内密に知り合いの弁護士を訪ねていた。
彼は祖父の代から会社の顧問弁護士をしていた関係で、紗耶にも面識があった。現在は顧問弁護士を引退して後輩にその地位を譲り、非常勤扱いで仕事を続けていると聞いていたが、今でも結城の内情には誰よりも詳しい人物だ。

「突然お邪魔して申し訳ありません」
まずは急なアポイントにも関らず、対応してくれたことへの礼を述べると、彼は相好を崩した。
「お久しぶりですね。前にお会いしたのは丁度今の娘さんくらいのお年だったと思いますが」
彼と最後に会って話をしたのは、祖父が他界し、遺産の相続で揉めていた時期だったと記憶している。その頃はまだ父親が実権を握っていたので紗耶はただ話を聞いていたに過ぎなかったが。

「今日はあるお願いがあって参りました。可能かどうか、ご判断をお聞かせ願えればと思って」
「私の及ぶ範囲のことでしたらお答えいたします」
「実は…相談と申しますのが、結城家の財産の分割と生前贈与のことなのです」




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