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 迷いの森 

 第五章   深く優しい闇に抱かれて  2 



車で送ると言う圭市の申し出を断ると、紗耶はタクシーで知人と待ち合わせをしているホテルへと向かった。
着いた先は、都内の一流ホテル。
入口でタクシーを降りると、ベルボーイに部屋番号を伝えてスーツケースを任せ、彼女は小さなボストンだけを持ってフロント側のカフェスペースへと入った。

『お待たせ』
英字新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた人物が顔を上げる。
『遅かったね』
『ちょっと出掛けにいろいろとあったから』
『ふうん』

彼は訝しそうな顔をしたが、それ以上は何も聞かなかった。
そして、紗耶が注文したコーヒーを飲み終えると、一緒に席を立った。
『じゃぁ、行こうか。そのバッグは僕が運ぶよ』



彼は、最上階から3階下のセミスィートの部屋を取っていた。
リビングから出入りできる寝室は2つ、それぞれの部屋に浴室とトイレのあるサニタリースペースが付属されていた。

『僕は一足先にこちらに荷物を解いたから、マリアは反対側を使って』
見れば、彼が譲ってくれたのは、部屋が広い方の寝室だった。
『こっちの方が広いじゃない?私は狭い方で充分よ』
『でも、そっちの部屋にはバスタブがついているんだ。マリアにはその方がいいだろう?』
『でも…』
『元々スケジュールが一杯であんまり部屋でゆっくり過ごすことはできないし、僕はシャワーがあれば十分さ。それに時間があれば「銭湯」って所にも行ってみたいんだ』
紗耶仕込みの日本通な彼は、かなりの親日家だ。
ほとんど不自由しない程度に日常会話もできる。二人で話をするときは英語の方が通りがよいのでそうしているが、時々レッスンも兼ねて日本語で話をすることもあるくらいだ。

『…ありがとう、ではそうさせてもらうわ』
こちらを見てにっこりと笑う若い男性の気遣いに、紗耶は感謝の気持ちを込めて微笑み返した。
『マリアは少し休んだら?あまり顔色が良くないよ。薬は持ってきている?』
『ええ、大丈夫よ。昨日こっちに来たばかりで、少し疲れているだけ。でも、そうね、ちょっとだけ休ませてもらおうかしら』
『夕食の時には起してあげるから、鍵は開けておいてね』
そう言うと、彼はリビングのソファーに座って再び新聞を読み始めた。


金髪碧眼、長身で整った顔立ちの彼は、どこにいても女性たちの注目の的だ。
その上、実力に裏打ちされる自信に満ちた所作は、若いながらもどこか軽んじられない、風格のようなものさえ漂わせている。

彼、エディことエドワード・ウォレンは、ここ数年世間から注目され始めた新進気鋭の画家だ。大胆な構図と繊細な筆遣いで巧みに描き出される彼の絵は、アメリカ本国のみならず、ヨーロッパやアジアでも高い評価を受けている。
年齢こそ、まだ20代半後半という若さだが、その知名度は若手の中では群を抜いており、今回も表向きは銀座の有名な画廊の招待で来日していることになっていた。
数年前、まだ無名だった彼を最初に発掘したのは、他ならぬ紗耶だった。
彼女は、不遇時代の彼を自分の画廊のロフトに寝泊りさせ、日々の面倒をみながら絵画の制作を促した。高級な画材がふんだんに与えられ、生活の心配がなくなったことで、彼は忽ちその才能を開花させ、あっという間に画壇の寵児となったのだ。
その後も紗耶は、次々と才能溢れる若い画家を見出し続けた。
結果、今では彼女が経営する画廊に作品を飾られることが新鋭画家たちの登竜門とも言われ、店には将来を夢見る若き無名の芸術家たちが集ってくる。
世間の注目度も高く、評判を聞きつけたバイヤーたちが掘り出し物を目当てに、頻繁に絵の買い付けに訪れる画廊としても有名だった。

すでに何人もの画家たちが経済的に独立して、紗耶の下から巣立ったが、エディだけはいくら独り立ちを勧めても一向に了承せず、未だに彼女と専属契約を結んだままだった。そのためにいろいろと興味本位で下世話な噂も立てられたが、彼の方が頑として彼女の側を離れようとはしないのだから仕方がない。今では紗耶も半ば諦めていて。彼の好きなようにさせていた。

『お休みなさい、エディ。本当にありがとう』
『お休み、マリア。あなたのお役に立てて嬉しいよ』




午後になって、彼はホテルのロビーで一人の訪問客を迎えた。

『すまないね。マリアは今ちょっと休んでいるんだ。できればもう少し寝させてあげたいから』
『そうですか。…ところであなたは?』
フロントで、聞いてきた部屋番号に連絡をしてもらったのだが、ロビーに降りてきたのは見ず知らずの若い男性だった。
「初めまして。君がマリアの…彼女の娘さんだね」
突然日本語で話しはじめた男性に、美優は戸惑いを隠せなかった。
「僕はエディ。ここで君のお母さんと部屋をシェアしている」

それを聞いた美優はショックで顔を強張らせた。
これまで実質的な独身生活をしていた父親が数多の浮名を流していることは耳に入っていたが、まさか母親も同じことをしているとは思いも寄らなかった。それも明らかに母よりもかなり年下と思われる、若い男性と同室で寝泊りしているとは。

学校から帰ってみると、紗耶はすでに家を後にしていて、父親も不在だった。
行き先は分かっていたので、母を説得してあわよくば家に連れ戻そうと思い、意気込んでホテルに乗り込んできたのだが、その勢いは目の前の事実を知らされるとともにあっさりと萎んだ。

20年近く別々に暮らし、父親がそうであったように、母親にも彼女自身の生活があったことは頭の中では理解しているつもりだった。
だが、今までずっと会えなかったことで、美優は自分の母親を神聖視していた節がある。勝手な言い草だと分かってはいるが、彼女にとって紗耶は母であり、女であって欲しくはなかったのだ。


「あの…これを母に渡してください」
彼女が差し出したのは1通の封筒。中には彼女が主役を演じるバレエの発表会のパンフレットとチケットが入っていた。
「それじゃぁ、失礼します…」
エディに封筒を押し付けると、美優は逃げるようにその場を立ち去ろうとした。
「あ、君!」
エディが慌てて美優を呼び止める。
「ちょっと待って。念のために言っておくけど、僕はマリアの、彼女の恋人ではないよ。誤解しているのなら。ちゃんと話すから、少し時間をくれる?」
彼はそう言うと、まだ戸惑っている美優を昼間、紗耶を待っていた喫茶コーナーへと誘った。


「パトロン?」
言われても、そういう世界と馴染みがない美優にはぴんとこなかったが、向かいに座ったハンサムな外国人男性は微笑みながら頷いた。
「YES.彼女は僕たちのような無名の若手画家をバックアップしては自分の画廊から世に送り出している。いわゆる後援者さ」

母がアメリカで画廊を開いていることは教えられていた。
元々美術系の才能があり、感性にも恵まれた人だったことは、今でも残されている別荘のアトリエの絵を見ただけでも明らかだ。
だが、どうやら今は自分では描かず、人の絵を扱うことに終始しているということらしい。

「マリアの…オーナーの私生活はまったくの謎だ。専属画家の中で一番付き合いが長い僕でさえ、彼女のプライベートはほとんど知らない。彼女は仕事と私生活を完全に分けているんだ。
ただ、一つ言えることは、彼女は絶対に自分が目を掛けた人間とは寝ない。それどころか、私生活に入り込ませることすら嫌がる。そのあたりはしっかりと一線を画している、やり手の画廊オーナーとしてね。」

ほっとした気持ちが思わず表情に表れてしまった彼女を見たエディが、にっこりと微笑んだ。
「マリアは師であり恩人であり、今ではビジネスパートナーでもある。そして家族のいない僕には一番近い、姉のような存在の女性なんだよ」

彼が語る母親の話を聞いていた美優は、もう少し彼といたかったのだが、迎えの車に帰りを急かされた。
仕方なく美優がホテルを後にする時も、エディはそのまま歓談しながら待たせてあった車まで彼女を見送った。
「それではまた。マリア…お母さんには伝えておくからね」
封筒を軽く振りながら、彼がウインクする。
「ええ、またお会いしたいです。もっといろいろと母の話を教えて下さいね」


そんな二人のすっかり打ち解けた様子を、運転席から冷ややかに見ている男がいた。圭市の秘書の柏木だ。
圭市の命を受け、紗耶が着いた先のホテルで部屋番号を聞きだしたのも、実は彼だった。その際に紗耶がエドワード・ウォレンというアメリカ人の男性と同宿していることも探り出していたのだ。

この男、母親だけでなく、娘まで歯牙に掛けるつもりか?

柏木は美優の姿を認めるや否や車外に出て、エディを遮るようにして後部座席のドアを開けた。そして、美優が車に乗り込むとすぐにドアを閉め、胡散臭そうにエディを眺めながらも流暢な英語で慇懃に挨拶をした。

『結城社長の秘書をしております、柏木と申します。今日は美優様が突然押しかけてしまい、申し訳ありませんでした』
『それはどうもご丁寧に。こちらこそ、すっかり引きとめてしまって。しかし、彼女はなかなか楽しい女性ですね。明るくて素直で、その上美しい。男なら誰でも好ましく思うタイプだ』
彼に対する挑発とも取れる言葉を聞いた柏木が恐ろしい形相で睨み付けるが、エディは全く動じることなく余裕の笑みを浮かべている。
二人の男は、何気なさを様子を装いながらも暫く相手を牽制しつつ互いに出方を窺っていた。

「どうしたの?柏木さん、急がないとレッスンに遅れるわ」
その時、場の緊張を破るように、美優が窓をあけて車内から声をかけた。
「申し訳ありません。すぐに」
最後にエディに一瞥をくれると、柏木は車を回りこみ、運転席に乗り込んだ。
「では、エディ。またね」
微笑みながら会釈する美優に、訳知りな含みを湛えた青い目の彼が頷き返したのを、柏木はミラー越しに苦々しい思いで見つめていたのだった。




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