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 迷いの森 

 第五章   深く優しい闇に抱かれて  1 



「何をしているんだ?」
翌朝、美優を学校に送り出した後、紗耶は荷物をまとめていた。
最初から長く屋敷に滞在する気はなかったため、ほとんどはスーツケースに入れたままだったが、使った細かな日用品はあちこちに出ていた。それらを片付けていたのだ。
「ホテルの手配をしたわ。すぐにでもそちらに移るから」
それを聞いた圭市が眉を顰める。信じられないとでも言うように。
もちろん、自分自身がそんなことをするのは不可能なことは分かっている。紗耶は半日違いでアメリカから日本に来ていた知人に連絡を取ってホテルのスイートに移ってもらい、ルームシェアを頼んだのだ。

「ところで、どんな御用?何か…結城のことで問題があれば、こちらで弁護士を雇ってあるから、彼を通じて話していただくことになると思うわ」

日本に戻ってきた大きな理由の一つは、今でも宙に浮いた形になっているはずの遺産や相続の問題を片付けるためだった。 本社やグループ企業の経営権は確実に圭市が握っているだろう。だが、結城の家屋敷や土地、有価証券といった財産的なものは、祖父から名義上の跡取りであった紗耶に譲られているはずだ。
美優が成人すれば、本家の直系子孫として、そして次の結城の跡継ぎとして、それらは彼女に託されることになるのだろうが、まだそれまでには時間がある。
娘の将来に不必要な負担をかけないためにも、それらを自分の代でできるだけ清算してしまいたいと思っていたのだ。

「いや、それとは全く関係ない」
圭市は、即座にきっぱりと否定した。
「では、一体何?」
「結城会長の…君の父親のことだ」

結城宗一朗。18年前、紗耶を一人異国に放り出した張本人。
父が倒れたことは風の便りに聞いていた。確かそのときはまだ、五十にもなっていなかったはずだ。
そのまま財界を退き、表舞台から完全に姿を消したことくらいしか、当時は情報が入ってこなかったし、敢えてそれ以上知りたいとも思わなかった。
だから彼女はその生死すら知らなかったのだ。

「まだ…生きていたの?」
「呼吸をしているのかと言えば、答えはYESだ」

宗一朗は、病気の後遺症で半身が麻痺しており、長年介護が必要な生活をしていたが、5年ほど前に併発した合併症がもとで、以来ずっと寝たきりの生活を送っていた。そして昨年の冬からは自発呼吸もできなくなり、今では病院で多くの医療機器に繋がれて、何とか生き永らえている状態だった。すでに意識も戻らず、病状はいつ心臓が止まってもおかしくないところまで悪化してきていた。

「今更、会う必要はないわ」
自分がここに戻ってきたのは、旧交を温めるためではない。
ましてや父、結城宗一朗はこの悪夢の元凶を作った人物だ。憎みこそすれ、彼に会いたいなどと思うことはない。

「最後に、父親に会っておくべきではないのか」
「あの男を父親なんて呼びたくもない」
娘として当然のことだというニュアンスを滲ませた言葉に、それを聞いた紗耶は身を強張らせた。
流れる血の半分があの男のものだと思うだけで虫唾が走る。幼い頃から冷淡な仕打ちを受け続けた自分には、元より親子の情など欠片もない。
そして18年前、あの男は紗耶を駒として扱い、いとも簡単に餌として圭市に投げ与えた。それで人生を狂わされた自分が、今更彼に会ったところで一体何がどうなると言うのか。

紗耶の唇に皮肉な笑みが浮かぶ。
「そもそも、あの男が私に会いたいなんて望んでいるとは思えない。私はもう…用済みの捨て駒でしかないのに」
「何てことを言うんだ」
それを聞いた圭市が気色ばむ。

「だってそうでしょう?あの男はあなたに言ったわよね。私を『無理やり犯してでも子供を産ませろ』と。そしてあなたはその言葉に従った。私がそれを知らなかったとでも思っているの?」

圭市の顔に苦渋の表情が浮かんだが、紗耶は構わずまくし立てた。
「あなたとあの男が何を企み、何を仕組んだのかを知ったとき、私はすべてを白紙に戻したいと言ったわ。でもあなたはそれを聞き入れてはくれなかった。
そして私を力ずくで辱めたのよ。
……惨めだったわ。
私はただ単に子供を産むための道具でしかないのだと思い知らされた。どうせ、あなたにとっては私の気持ちなんてどうでもよかったのよね。結城の血が流れるこの身体さえあれば、中味など必要ではなかったのだから」
「それは違う。確かに君は私との結婚を避けようとした。それを強引に進めたのは私と君の父親だ。
しかし、少なくとも私は君を知ろうと努力をしたつもりだ。だが、君は結婚してからも私に距離を置き、何もぶつけてはこなかった。考えも、気持ちも。理解したくても、紗耶…君はそのチャンスすら与えてはくれなかった」
「やっと17歳になったばかりの私が、何をどうすればよかったと言うの?
何一つ自由のなかった生活で、あなたや父親や、周囲の人たちは良い様に私を操り、ただただ従順で愚かであることを強要した。
そして、やっとの思いで産んだ娘からも引き離されて――」

その頃を思い出し、漏れそうになる嗚咽を無理やりに飲み込んだ紗耶は、きつい眼差しで圭市を見据えた。
「一人放り出され、心身ともに疲れきってぼろぼろになった時、初めて私は自分の足で立ち上がることができたの。誰からも脅かされず、人生を自分の手で切り開くことを考えるようになったわ」

だから戻れなかった。
どんなに辛く屈辱的な生活を強いられても、やっと手に入れた自立を手放し、妥協することは彼女のプライドが許さなかった。
そして彼女は異国の地で血のにじむような努力をして、多くのものを得た。
ビジネスの成功、富、名声、そして財産。
だが、失ったものもまた多かった。それは誰よりも身に沁みて彼女自身が一番良く分かっていることだった。

紗耶が寂しそうに笑う。
「私はただの一度も結城の名前や財産を欲しいと思ったことはないわ。父であっても、あなたであっても、欲しいのならばすべてあげても構わなかった。
ただ、私は平凡な温かい家庭が欲しかった。どこにでもあるような、ごくありふれた普通の家族を作りたかった」

幼い頃から夢に見ていた。
父親がいて、母親がいて、子供たちがいて。いつも明るい笑い声が絶えない、愛情あふれる温もりに満ちた家。
金銭的、物質的には恵まれ過ぎるほどの環境に置かれていた彼女が、どんなに望んでも決して手にすることができなかったもの。

「でも、この結婚は私に何も齎してはくれなかった。いえ、それどころか私のささやかな望みさえも奪い去ったのよ」
彼女はそう言うと、自嘲するように唇を歪めた。
「だってそうでしょう?私は…自分が産んだ子供を一度もこの手に抱くことすら叶わなかったのだから」




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