第四章 別離 7 赤ん坊は男の子だった。 アパートに連れてこられてから数日、紗耶は何かに取り憑かれたように子供の面倒を見ていた。 ここの住人たちの大半は女性で、そのほとんどが職種はいろいろだが夜の仕事に就いていた。 男の子の母親もその一人だったということだが、この赤ん坊を産んでからすぐに行方が分からなくなってしまったらしい。 男と逃げたのではないかと疑う者もいるが、ジェシカは母親が何か事件か事故に巻き込まれたのではないかと心配していた。とりあえずもう少し様子を見ながら待とうということになり、友人たちが交代で子供の世話をしていたというのだ。 ただ、皆それぞれに仕事を持つ身である上に小さな子供に慣れない者も多く、その世話に手を焼いていた節があり、紗耶は子供を看るという行為と引き換えに、期限付きながら当面ここに住むことを保証されたようなものだった。 「それじゃ、行ってくるからね。何かあったら店の方に電話を入れとくれ」 ジェシカは出勤前に紗耶たちのいる部屋に立ち寄ると、そういい置いて出掛けて行った。 紗耶が今いるのは、赤ん坊の母親が暮らしていた部屋だ。 来た当初は荒れ放題になっていて、お世辞にも衛生的とは言えなかったが、子供のものと家財道具はほとんどそのまま残されていので、そこに居候する形で生活を始めた。今では大方片付けも終わり、住むのに支障がないくらいにはなっている。 「水浴びをしてから眠りましょうか」 赤ん坊を小さなキッチンに連れて行くと、紗耶はシンクに水を溜めて即席のベビーバスを作る。この部屋にはベビーバスはおろか、大きな洗面器さえ置いてなかった。一体母親はこれまでどうやってこの子を沐浴させていたのか、紗耶には見当もつかない。 水に少しのお湯を混ぜて適当な温度にすると、赤ん坊を裸にして体を流す。 この時間はまだ外の熱で温められた水がぬるんでいるので助かる。皆に養ってもらっている身では、贅沢にガスや電気を使うのは気が引けるからだ。 「少し湿疹が治まったみたい。よかったわね」 紗耶は、言葉を理解できない赤ん坊に日本語で話しかけている自分に気付き、苦笑いを浮かべる。 ここに来てからというもの、注意深く人前で日本語を話さないように気をつけていた。 まだ追手が来ている気配はないが、こんな場所に日本語を話す、身元がはっきりしない女がいることが知れればすぐに見つかってしまうだろう。今は連れ戻されることよりも、一緒にいるこの子と引き離されることが怖かった。 ジェシカたちは、紗耶が産んだばかりの子供を亡くしたと思っているらしく、幸いなことに、そのことをあまり深くは追求してこなかった。 そして何も言わずに衣食住を提供し、身元を明かすものを何一つ持たない紗耶を、仲間のように受け入れてくれた。 約束では、あと1週間待っても母親が戻って来ない時には、福祉事務所に通報することになっている。保護者のいない赤ん坊は、恐らく施設に引き取られることになるだろう。 そこで紗耶の役目は終わる。その後のことはまだ何も考えていなかった。 さすがに、何もせずにここにこのまま居候させてもらうことはできないだろうから、これからは、食べていくための手段を考えなくてはならない。 着のみ着のままで施設を飛び出した紗耶はお金の類はおろか、パスポートさえ持っておらず、真っ当な職を探すことはまず無理だった。 沐浴と授乳を済ませ、ベッドに寝かせると、生後約ひと月の赤ん坊はすぐに寝息を立て始める。紗耶は、その姿に肌の色や目の色、髪の毛の色は違えども、自分が産んだ娘を映して見ていた。 何一つ手をかけてやれなかった娘は今、一体どこでどうしているのだろう。どこも体に悪いところは見つかっていないだろうか。無事育っているのだろうか。 考えれば考えるほど、子供を手放したまま出奔してしまった自分の愚かさが身に沁みた。 その現実から逃避するように、彼女は目の前の赤ん坊の母親になりきって世話をし続けていたのだった。 母親として、何もできないまま手元から離されてしまった我が子。 娘のことを思う時には、決まって彼女は自分を責めると同時に希った。 許されるなら…いつの日か一度だけでいいから、抱きしめさせてほしいと。 紗耶が失踪した直後、圭市は彼女が入っていた施設の側にいた。 病棟の建物は外観を留めておらず、爆発とそれにともなう火災の威力を見せ付けていた。 彼女がいた棟の被害者がもっとも多く、未だ死傷者の正確な数字が出てこないほどだ。 爆発の原因は、高密度の吸入ガスに入所者が持ち込んだドラッグの吸引用具から引火したためとも言われているが、まだ特定はされていない。ただ、個室がすべて外から施錠される隔離病棟付近から出火したことで多数の患者が逃げ遅れ、被害を拡大させたことは疑いようがなかった。 建物から遺体が搬出されるたびに、圭市は確認のために駆けつけた。 その合間に怪我人が収容されている近隣の病院にはすべて足を運んだがどこにも紗耶の姿はなかった。 すでに鎮火から丸一日が過ぎている。 不明者の数は減ってきているものの、まだ紗耶の安否は分からないままだった。 もしかしたら、別の病院に違うルートで収容されているのではないかと考えた圭市は、市内だけではなく、近隣の病院にまで片っ端から足を運んだ。 しかし、どこにも紗耶らしき人物が来院したという記録はなく、すべてが徒労に終わった。 だが、彼は諦めなかった。 紗耶本人を自分の目で確認するまで、生存の可能性は捨てない。 ただその思いだけで情報を待ち続けたのだった。 それから数日後、圭市は突然コーデネーターと共に、娘と房枝が待つ病院へとやって来た。 驚く房枝に彼が告げたのは、あまりにも酷い現実だった。 「サンプル…ですか?」 「ああ」 すでに目視で判別できる遺体はすべて収容されていた。残るのはDNA鑑定で判別するしか方法がないほど損傷が激しい遺体や、手、脚の一部といった状態の部分遺体だけだ。 その検体サンプルを娘から採取するために戻ってきたのだと言う。 「そんなに酷い状況なのですか?お嬢様はまだ見つかっていないのでしょう?」 房枝はショックで蒼白になりながら、圭市に取り縋った。 「病院には収容されていない。だが、遺体も見つかっていない。…今分かっている事実は…それだけだ」 「そんな…」 圭市は絶句する房枝にというよりも、自分に言い聞かせるように呟いた。 「まだ紗耶が死んだと決まったわけではない。だが本人が現れず、身元が分からない遺体がある以上どうしても確認する必要があるんだ。それで該当しなかったら、紗耶はまだ…まだどこかで生きているという希望が持てる」 「一体、何でこんなことに…」 紗耶も自分が子供を産んで、本当の意味での家族を持った。房枝はやっとこれで彼女も人並みに幸せな人生を送れると喜んでいた矢先だったのだ。 幼い頃から側で彼女を見守ってきた房枝は、紗耶がどんなに普通の家庭に憧れていたかを知っている。夢の実現を目の前にしながら、やはりそれは紗耶には手の届かないものであったのかと思うと、遣り切れない思いだった。 「まだ死んだと決まったわけではない」 搾り出すような声に、その場にへたりこんだ房枝は、傍らに立ち尽くす圭市を見上げた。 「紗耶は生きている。生きているからこそ、遺体が出てこないんだ。紗耶を…この目で見るまでは、絶対に死んだと認めない」 少し痩せたかと思う顔には濃い疲労の色が浮かんでいた。眉間にはいつも以上に深い皺が刻まれ、頬や顎には無精ひげが伸び放題になっている。 目つきこそ変わらず鋭いが、引き絞った唇は微かに震えているようにも見えた。 いつもの圭市には考えられない様子に、彼もこの数日でかなり堪えているのが見て取れた。 「諦めない。どんな形であっても、絶対に紗耶を見つけ出す」 しかし、DNA鑑定でも本人と確認できる遺体は見つからなかった。 結果的に、紗耶は行方の分からない生死不明者として被害者リストに登録された。 その後数ヶ月の間、圭市は仕事の合間を縫って日本とアメリカを往復しながら紗耶を捜し続けたが、その行方は杳として分からなかった。 火災事故から2ヵ月後、紗耶の父親である宗一朗が突然病に倒れた。 一命は取り留めたものの右半身に麻痺が残り、会話や歩行が困難となった義父は、財界への復帰は絶望視された。 皮肉なことだが、あと数ヶ月、圭市が動くのを待っていても結果は同じだった。 もしもあの時、彼があと半年行動を起こすのが遅ければ、行き着く先は同じでも、紗耶との約束を守れたのだ。 後に圭市は、この時のことを思ってはそのタイミングの悪さを悔やむことになる。 なぜあの時、動いてしまったのか、と。 そして紗耶が失踪してから半年後。 圭市は娘を連れて日本へと戻ってきた。 長旅に飽きた赤ん坊はビジネスジェットを降りる前から機嫌が悪く、ぐずり始めていた。 「ほら、美優。これがお前の母国、日本だ」 美優と名づけられた子供を房枝から抱き取ると、圭市は娘を抱いたままタラップを降りる。 吹き付ける風はすでに冷たく、それは身重の紗耶をここから送り出したあの時を思わせた。 妻の面影を宿す、幼い娘を見ながら圭市は誓う。 ―― いつか必ずお前の母親を探し出して連れて帰る。絶対に…… HOME |