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 迷いの森 

 第四章   別離  6 



結局、紗耶は怪我の治療を受けることなく病院を後にした。
元々、膝と肘を擦り剥いた程度の傷で、出血さえ止まれば処置などしなくても何ともない。
ここで治療を受ければ身元が知られてしまい、即座に拘束されて療養所へと送り返されてしまうだろう。子供を奪われ、いつ迎えが来るとも分からないまま、あの牢獄のような場所へは戻りたくなかった。
いや、縦しんば無事迎えが来て療養所を出ることができたとしても、彼女を待っているのは、以前と同じ自由のない囚われ人のような生活かもしれない。

心の通じない相手に、好き勝手に自分の人生を翻弄される口惜しさと、それに抗する力を持たない虚しさ。結婚して、我が身を同じ立場に置くことで、初めて紗耶は母親の孤独と絶望が理解できたような気がした。

こうして紗耶は、患者でごった返す病院をそっと抜け出すと、そのまま当てもなく通りを歩き始めた。


午後の厳しい日差しが地面に照りつける。その照り返しで道路は熱く焼け、サンダル履きの足元を容赦なく焦がしていく。
今まで施設の外を歩いたことがない紗耶は知らなかったのだが、町のすぐ側には乾燥した砂漠地帯があり、そこから風向きによっては渇いた熱風が吹き付けるのだ。
日陰を選んで移動しても、あっという間に着ていたワンピースが汗だくになり、傷口に当ててあるガーゼまでもがじっとりと湿ってくるのを感じる。
しかしその汗も、少し日向を歩くとすると日差しと乾燥した風に煽られて乾いてしまう。
これを何度か繰り返すうち、紗耶は頭痛と眩暈、そして吐き気を覚え始めた。
ただでさえ出産の直後で体力が落ちている上に、水分も摂らずに炎天下、長時間汗をかき続けたせいで、脱水症状を起しかけていたのだ。

何度か気の向くままに通りを曲がり朦朧としながら歩くうち、気がつけばダウンタウンの外れに来ていた。目の前には細い川が流れ、自動車がやっと交わせるくらいの橋が架かっている。
川岸には多少の木陰があり、川風に僅かばかりの涼を求める人々の姿もあった。
紗耶はふらつく足で橋の中ほどに辿り着くと、欄干から身を乗り出して下をのぞきこんだ。
見た目は涼しげだが、流の緩い川面は水の澱みがはっきりと分かる色をしている。
この水では、飲むどころか、顔を洗うことさえできそうにない。
彼女はがっくりとうな垂れると、その場にしゃがみ込んだ。
もう一歩も動けない。
それでも座っていると、立っている時以上に地面からの熱で蒸し返される。
仕方なく、脱水症状に悲鳴をあげる身体を無理やり起こすと、紗耶は力なく欄干に寄りかかった。

「そこから飛び込むつもりかい?」
突然後ろから肩を掴まれた紗耶は、驚きのあまり掠れた悲鳴をあげてその場に尻餅をついた。
「ここから飛び込んでも死ねやしないよ。せいぜい川底にぶつかって骨を折るくらいが関の山さ」
声をかけてきたのは女だった。三十絡みといったところだろうか、濃い化粧に染め分けたブロンド、10cm以上はあろうかというピンヒールに派手な服装。恐らくは夜の商売をしている女性だろうと推測できた。
早口でスラングのきつい言葉を聞き取れず、ぽかんとした顔で見上げる紗耶に彼女が苛立たしげに捲くし立てる。

「ここはすぐ側に公園があるから子供たちが大勢通るんだ。それに、橋の向こうを見てごらんよ」
何を言われているのか分からないまま、女性が指差す方に顔を向けた場所には、小ぢんまりとした教会が建っていた。
「こんなところで死のうだなんて、神様の罰が当たるよ。さあさ、行った行った」

紗耶にはそんな気は毛頭なかったのだが、何を言われているのか分からないし、それに答える語力も気力もない。大体こんなところに教会があったなんて、教えられるまで気がつくとこもなかったのだ。
女は手で追い払う仕草をしたが、紗耶は、その場に竦んだまま、ぼんやりと所在なさげに川の向こう岸を眺めていた。


「もしかして、あんた、行く所がないのかい?」
再び女に声をかけられたが、言葉が理解できない紗耶は首を傾げるばかりだ。
そこでようやく女も、彼女が英語を解しないことが分かったようだった。
「家だよ、家」
単語でゆっくりと話してようやく女が問いかけた内容に気付いた紗耶は、横に小さく首を振った。
「仕方がないね。とにかくその怪我だけでも手当てしてやるから、一緒においで」
座り込んだ体を抱えるようにして立ち上がらせると、女はふらつく紗耶の脇を抱えて通りを歩き出す。
すでに抵抗する体力も気力も残っていなかった紗耶は、抗うこともできないまま、半ば引きずられるようにして女について行った。



紗耶が連れて行かれた先は、古くて薄汚れた感じのアパートだった。
外壁はあちらこちらがひび割れ、ところどころに表面が剥がれた痕があった。立て付けの歪んだ表の扉を開けると、部屋に入りきらない荷物が狭い通路にまではみ出し、蛍光灯は切れたままで半分位しか点いていない。
普通ならば入るのさえ躊躇するようなところだが、今の紗耶にはそれを判断する気力が無かった。
薄暗い階段をやっとの思いで3階まで上ると、女は鍵を取り出して扉を開けた。

「ほら、入んな。狭くて散らかってるけど」
通された彼女の部屋は、6畳ほどのリビングとベッドルーム、それに小さなキッチンにバストイレ。日本でいうところの2Kといったところだろうか。その室内は洋服や靴、小物といった雑多なもので溢れかえっていた。

「座って」
椅子を示して単語で話しかける女は、自分を指差すと「ジェシカ」と名乗ったそして次に紗耶を指して何か問いたげな顔をした。
「名前」
もちろん単語は理解できたが、敢えて紗耶は何も答えず、ただ首を振った。ここで名を隠したところで大した意味はないだろうが、それでも知られたくないという思いがあった。
「な・ま・え。名前だよ、分からないのかい?」
ジェシカは、大げさに溜息をつくと、大きな青い瞳で彼女を見据えた。
「名前がなきゃ呼べないだろう?それとも『ジェーン』とでも呼ばれたいかい?」

紗耶は言われていることが分からず首を傾げた。
実は、『ジェーン』は名前の分からない女性に付けられることが多い仮称で、こちらでは往々にして身元不明の死体が『ジェーン・ドゥ』と呼ばれることを、後に英語を理解できるようになってから知ったのだ。
ジェシカは冗談のつもりで言ったのだろうが、その当時の紗耶には全く意味が分からなかった。

それでも黙ったまま何もしゃべらない彼女に、ジェシカは大げさにお手上げのポーズをして見せた。
「仕方がないね。それなら適当に呼ばせてもらうよ。そうだね…」
ジェシカはしばらく何か考えていたようだった。

「マリア。あんたは今日からマリアだ。あの教会の前で拾ったんだから、神様の思し召しがあって当然さ」


後に振り返って、紗耶は思った。
あの時ジェシカと出会ったことは、自分にとってある意味不幸であり、それを上回る幸運でもあったと。
ジェシカの側にいたからこそ、紗耶は言葉も分からない見知らぬ土地でも犯罪に巻き込まれることなく何とか生き抜いた。だが、一方で、ジェシカの卓越した世渡り指南であまりにもうまく世間の裏をかいたがために、紗耶を探す者たちに所在を掴ませず、結果として日本へ帰る機会を逸したとも言えたからだ。



傷の手当をされていた時、階下の部屋から小さな赤ん坊の泣き声が聞こえていた。
「そこを動くんじゃないよ」
ジェシカは小さく舌打ちするとそういい置いて、薬箱を棚に戻してから部屋を出て行った。
一人残された紗耶は、急に心細くなり、急いでジェシカの後ろを追いかけた。もとより彼女の注意は理解していない。

「また泣かせてるのかい?」
彼女がノックもせずに入っていった先には、ぎこちなく子供を抱きながら哺乳瓶を咥えさせている女性がいた。
「仕方がないだろう?こんなこと、あたしだって初めてなんだから」
何かいわくあり気にひそひそと話す二人が、戸口に佇む紗耶の姿に気付いた。
「動くなと言っておいただろうに」
「この娘、誰だい?」
咎める口調のジェシカも、眉を顰める女も、もう紗耶の目には入ってはいなかった。
彼女が見ていたのは、女の腕の中でぐずる、生後間もないと思われる小さな赤ん坊だけだ。
紗耶はゆっくりと歩み寄ると、女の腕から子供をもぎ取ろうとした。
「ちょっとあんた、何をするんだい?」
女が驚いて怯んだ隙に、紗耶はしっかりと子供を抱きとった。既に彼女の胸は見るからに張り、パットで吸いきれなくなった母乳がワンピースにまで染み出してきていた。

「あんた、その胸…」
驚きの眼差しで見ているジェシカたちの前で、紗耶は洋服の前開きのボタンを外すと、迷わず赤ん坊に胸を差し出した。

「ほら、いい子ね」
指で子供の口元を突くと、子供は本能的に唇を窄めて乳首に吸い付いた。
誰に教わったわけでもない。紗耶はただ母親の本能だけで赤ん坊に乳を与えていた。


その光景に、居合わせた者は誰一人口を開かなかった。
そこにあったのは、外の微かな喧騒と、ただ赤ん坊が無心に母乳を吸う音だけだった。




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