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 迷いの森 

 第四章   別離  5 



最初の衝撃音が止むと、次に鳴り響いたのは火災警報器の音だった。
早口の英語のアナウンスが流れた後で、周囲にいた人々が一斉に非常口に向かって殺到し始める。
そんな彼らを尻目に、紗耶は再びゆっくりと椅子に腰を下ろした。
何か非常事態が起こったということは容易に想像できたが、逃げなければという気力が湧いてこなかった。もしもまだ、お腹の中に赤ちゃんがいたとしたら、彼女は娘のために他人を押し退けてでもここから脱出しようとしただろう。
だが、今となってはその必要も感じなかった。

人気がなくなったロビーはすぐに照明が落ち、代わりに所々にある非常等が薄暗い灯りを点している。

死にたいとは思わない。だけど生きていく意味を見いだせない。

紗耶は暗がりに一人ぽつんと座ったままで、暫くはぼんやりと人々が去った非常口を眺めていたが、辺りにも少しずつ煙が立ち込め始めたのを見て徐に立ち上がった。そして躊躇なく、非常口とは反対側の廊下へと向かって歩き出した。


− ◇・◆・◇ −


タラップを下り、地面に降り立った足元に乾いた砂塵が舞う。
圭市は、プライベート・ジェットをアメリカ中西部にある個人所有の空港に乗り着けていた。
待っていた迎えの車に乗り込むと、早速先に送り込んだ部下と仲介人を通じて不動産業者に連絡を入れて交渉をし始める。
子供が入院している病院の近くに戸建ての家を買い求めるためだ。
聞いたところによると、娘はまだ1ヶ月以上の入院が必要とされていて、その後も2、3ヶ月経たないと飛行機で日本に連れて帰ることはできないと言う。
暫くは紗耶と娘はアメリカで生活することになり、圭市がこちらに通うことになるだろう。その間のベースにするための住居だ。

予定では、今日のうちに契約を済ませ、家具等を運び込んで住める状態にした後に、明日、施設から退院してくる紗耶を迎えに行くことになっていた。


出産以来、圭市は紗耶とまだ一度も話をすることができないでいる。
彼女の体調や圭市の多忙、そして日米の時差、と言い訳をすればきりがないが、やはり一番の原因となっているのは紗耶の心に作ってしまった蟠りだろう。
房枝によると、紗耶も最初は不満を漏らしていたらしいが、時間を追うごとにぱたりと彼のことを口にしなくなってしまったという。
それを聞いた彼は、言い知れぬ不安に駆られた。
元々紗耶は気持ちを曝け出すことが苦手なタイプで、何か不満があっても他人に怒りや苦しみをぶつけるより自分の中に引きこもってしまう傾向がある。
ただでさえ出産直後という不安定なこの時期に、彼女が心身ともに受けたダメージを思うと、案じるなと言う方が難しい。
何度も入院先に連絡を入れて、圭市も彼なりに努力はしたつもりだが、如何せん彼女からのリアクションはまったく返ってこなかった。
ここ数日は彼もついに諦め、その代わりに仕事の量をこなして時間を作り、こちらに滞在できる日数を増やすことに専念した。その間に今回の経緯を説明してじっくりと話し合う機会を作り、問題を解決するつもりだったのだ。



娘が入院している病院に着くと、房枝がロビーで待っていた。
「遠路はるばる、お疲れ様でした。先ずは赤ちゃんにお会いになりたいでしょう?その後でお医者様から詳しいお話があると思います」

そのまま連れて行かれた病棟のナースステーションで書類の説明を受け、いくつかにサインをしている時だった。
隣に立っていた房枝が、突然カウンターの端に置いてある小型のテレビに駆け寄った。
「圭市様…圭市様」
蒼白になって呼ぶ房枝に、彼も何事かと歩み寄る。
「これ……」
テレビの画面を指差す房枝の手ががたがたと震えているのが分かる。
見れば、ニュース番組が事故の速報を流している。
「これがどうかしたのか?」
「こ、これは、お嬢様が入院していらっしゃる、あの施設の建物です」


− ◇・◆・◇ −


屋内の階段を数階分降りたところで、防火扉に行く手を遮られた紗耶は、そのまま奥へと続いている薄暗い廊下を歩いた。半年近く入っていた建物とはいえ、自室と中庭以外には滅多に出歩くことがなかった彼女には、その階に何があるのかさえほとんど知らなかった。
人気のないそこは事務関係の区画のようで、皆慌てて避難したのか、納品されたばかりと思しき品々が台車に乗せられたまま辺りに放置されていた。
非常灯を目印にそのまま先に進むと、突き当たりに大きなスチール製の扉が現れた。きっちりと施錠されているに違いないと思いながらも試しに押してみると、驚いたことにそのドアは外に向かって簡単に開いた。

のぞいたドアの向こうは納入業者用の通用口になっていた。
通常ならばここも厳しく施錠されてしかるべき場所なのだろうが、避難する人々が閉め忘れたか、非常時ということで、開放したまま放置したかのどちらかだろう。
ただ、そこは地上ではなく地下室のようで、このまま外に出るには長い通路を出口まで歩くしか手はなさそうだ。

「そこのあんた」
突然の呼び止める言葉に驚いて、飛び上がった。まだここに残っている人間がいるとは思ってもみなかったのだ。
「なんでまだ、こんなところにいるんだ?早く逃げないと煙に巻かれるぞ」
声の主は大柄な若い黒人で、出入りの業者なのか、青い制服を身に付けていた。
「とにかく乗れ。ゲートまで送ってやる」

身振り手振りで何とか意味を理解した紗耶は、黙って助手席のドアを開けた。トラックの高い座席に乗り込むのに体に力を入れると抜糸したばかりの傷が引き攣ったが、顔には出さなかった。
「あんたラッキーだよ。正門を使うより、こっちの方が断然出入りする数が少ない。スムーズに逃げられるよ」
内容は良く分からなかったが、その話しぶりから、どうやら彼は紗耶を面会に来て避難口に迷った外部の人間と勘違いしているようだった。
確かに今日の彼女は白っぽいマタニティーのワンピースを着て、白いサンダルを履いている。入院している患者が身に付けているパジャマの類とは雰囲気が違うのだろう。

いつもは厳重なチェックをしているゲートも、今日はさすがに無人で、開放されていた。もちろん、IDカードも不要だ。
警備員も逃げたか、あるいは他所の混乱の整理に駆り出されたのかもしれないが、とりあえずIDカードはおろか何一つ所持品もなく、手ぶらの状態の紗耶には、あれこれ質問もされずにゲートをくぐれたことはありがたかった。

そのまま車に乗せられて送ってもらった先は、市内にある公立の病院だった。
逃げる際に何度か転んだ紗耶が手足に軽い怪我をしているのを見た運転手が最寄りの病院まで彼女を運んでくれたのだ。

その病院は救急車が次々に運んでくる急患でごったがえしていた。
それらの患者の大部分は、彼女が入院していた施設から搬送されてきた怪我人たちだった。
紗耶は知る由もなかったが、その頃には施設の火災は全米にライブで中継されるほどの大惨事になっていたのだった。



「ここ…ここ、お嬢様がおられた所です」
房枝の言葉に、圭市も顔色を変える。
「まだクリニックから退院していないかもしれない。何か情報はないか、日本に連絡をしてみる」
圭市の携帯は病院に入る際にオフにしていた。
慌てて電源を入れると、大量の着信履歴があった。

「私だ」
こちらが正午過ぎなら、日本は深夜のはずだ。それでも先方はワンコールも待たせなかった。
「結城社長ですね?」
電話に出た秘書とは互いに前置きも挨拶もなく、すぐに本題に入る。
「3時間ほど前に、現地から連絡があったようです。奥様はクリニックを退院されて、療養所に戻られたそうです。その後、火災一報が入ってきたので、私も社に駆けつけました。急いで確認しようとしたのですが、すでにあちらは電話が通じません。こっちも連絡待ちの状態です」
「紗耶は療養所に戻っていたのか?」
「はい。そこまでは確認が取れていますが…」
「分かった、すぐに現地へ向かう。君もそのまま待機していてくれ」

療養施設のある町の近辺に空港はなく、空路ならヘリコプターを使うか、州間道路を車で飛ばすしか、たどり着く手段はなかった。
時間を惜しみ、すぐにヘリをチャーターすると、娘との面会もそこそこに、圭市は再び機上の人となった。
ただ、その無事を祈りつつ、彼は紗耶の入院していた施設へと向かった。




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