第四章 別離 4 「一応抜糸が済みましたので、これで退院の許可が出せますよ」 医師の言葉に頷いたのは、付き添う通訳だ。 処置用のベッドに横たわる紗耶は表情一つ変えない。ただ、黙って白い天井を見ているだけだった。 出産後の混乱の後、再び意識を取り戻した紗耶は、通訳を介して、生まれた娘の状態が悪く、設備が整った病院への転院を余儀なくされたことを改めて聞かされた。 出産の進行が早く、胎児の位置が下がる前に破水してしまった時点で、もう子供を出してしまうしか手立てがなかったことも。 「それでも体重は1800グラム近くありました。聞いていた予測値よりもかなり大きかった」 前日の検診では基準よりも小さめだと言われていたことを考えると、少しは救われる思いがした。 それでも紗耶は、抱くことはおろか、顔を見ることさえできなないまま、遠く引き離された我が子に心の中で詫びた。 もっと大きく産んであげられたら、娘に負担をかけずに済んだだろう。自分にとっても、こんな風に子供と離れ離れにされることはなかったのだ。 それから紗耶は、必死に圭市の行方を探した。 もしかしたら、子供についているのだろうか。それならば、ここにいなくても仕方がないと思えた。 しかし、いくら聞いても自分に付き添っていたのは房枝だけで、その房枝が娘の転院に同行したことしか分からなかった。 「そんなはずはないわ。彼はここに来ているはずよ」 最初のうち、紗耶は周囲の言葉を聞き入れなかった。 どんなことがあっても圭市は必ず出産には立ち会ってくれる。そう固く信じていた彼女にとって、知らされた事実は到底受け入れがたいものだった。 紗耶が意識を取り戻したという連絡がいったためか、すぐに房枝が子供の様子を知らせてきた。 最初に危惧されたような、重篤な症状は何もなく、体重さえ基準を超えればすぐにでも一般の新生児室に戻れるようだ。 『本当に手足の長い赤ちゃんですよ。将来はさぞかしスタイルの良い、すらりとしたお嬢様におなりでしょう』 房枝も一時の緊張状態が解けたせいか、嬉しそうに子供の様子を話している。 「まだ抱くことはできないの?」 『聞いた説明だと、もう少し体重が増えないと無理なようですね。ただ、保育器ごしに見ていると、いつも手足を動かしている、活発な赤ちゃんのようですよ』 それを聞いた紗耶が、急に黙り込んでしまう。 「せめて顔だけでも見たかった。抱くことが叶わないならば、せめて…」 『お嬢様…』 紗耶の声が震えていることに気付いた房枝は、言葉を失った。 産みの母親であるにも関らず、娘の顔を見ることなく引き離されてしまった紗耶の心中は如何ばかりだろうか。 自分は、主の出産が大事にならず、安心して浮かれてしまっていた。しかし、母子が別々になり、圭市も側にいることができないという、今現在、紗耶が置かれている状況は想像以上に辛いものに違いなかった。 「せめて圭市さんがいれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに」 この言葉が紗耶の口から出てくることは、容易に予測できた。彼女の落胆を察しながらも、圭市の弁護もしなければならない房枝の思いは複雑だった。 『詳しくは申し上げませんが、お嬢様、圭市様はどうしても日本を離れられなかった理由があったのです。あの方は今、必要以上に重い責任を負う立場におられるのですよ』 電話の向こうの、房枝の声が気遣わしげに聞こえる。 「分かっている、分かっているわ。彼が忙しいということは。でも、彼は約束したのよ。どんなことがあっても来てくれるって。それなのに…」 所詮、圭市の中で自分との約束が占める位置は、その程度のものなのだ。 最初から、彼は事業の後継者と名指されて結城に来た。それをより一層はっきりと周囲に認めさせるために、紗耶と結婚して跡継ぎを儲け、足元の地盤を固める目論見があったことは承知している。 自分はそのためだけに、子どもを産む「器」としての役割を求められたに過ぎない。 紗耶は改めてその現実を思い知らされた気がした。 圭市が彼女を気遣ったのは、子供のことを心配していたから。役目を終えた抜け殻の身体は、もう用済みになったのだろう。 「赤ちゃんをお願い。私の代わりにしっかり見守っていてね」 彼女は電話で何度もその言葉を繰り返した。それは、あたかも房枝に娘を託すかのようだった。 『大丈夫ですよ。すぐにお嬢様もこちらにお越しになって、赤ちゃんをお抱きになれますから。もう少しの辛抱ですよ』 結果として、房枝の言葉が実現することがなかったのは皮肉なことだった、と後に彼女は思った。 その後、ちょうど紗耶が病室を離れて診察を受けている時に圭市から連絡があったようだった。 しかし、彼女はそのまま故意に折り返しの電話をしなかった。 声を聞けば溜まっていた鬱積が爆発しそうで怖かったし、今更何を言われてもそれを素直に聞けるような心境にはなれなかったからだ。 その翌日は眠っているふりをしてやり過ごし、その次の日はわざと部屋を空けて、一日の大半を中庭で一人ぼんやりと過ごした。 クリニックには広い談話室が設けられていたが、敢えて彼女はそこには近寄らなかった。元々英語がほとんど分からないし、分かったとしても共通の話題を持てなかったからだ。 ここは産科のクリニック。 入院しているのは、出産を控えているか終えたばかりの母親とその子供だけだ。今の紗耶には、彼女たちのように話すべき子供の話題がない。自分が産んだ娘を抱いたことはおろか、顔すら見たことがないのだ。かと言って、父親となった夫の話を面白おかしく語れるような経験も、彼女は何一つ持ち合わせていない。 それが分かっているからこそ、彼女たちの輪の中に入っていくことができなかったのだ。 のろのろとしか過ぎていかない時間を持て余す日々。 しかしそれでも時間がくれば胸が痛むほど張ってくる。本当ならば、我が子を抱いて乳を含ませる幸せな時間であるはずなのに、今の彼女には溜まった母乳を搾り出しては捨てるためだけの行為。その虚しさに、紗耶は搾乳のたび周囲に気付かれないように泣いた。 日を追う毎に段々と言葉少なになっていく紗耶を心配した看護師やスタッフが、顔を見ると声を掛けてくれたが、それでも彼女の表情が晴れることはなかった。 相変わらず夫と話をすることを拒み続け、通訳の存在もそれとなく遠ざけるようになっていった。 そして10日後の今日、抜糸が終わりクリニックを退院すると、彼女は再び施設へと戻される予定になっていた。 一旦病室に戻り、用意されていたマタニティーのワンピースに着がえる。 前にこれを着たときにはウエストのリボンが結べなかったのに、今はちゃんと蝶結びができるようになっていた。 赤ちゃん、本当にいなくなっちゃったのね。 紗耶には、未だ母親になったという実感が沸いてこなかった。 側に子供の姿はなく、あるのは空っぽになったお腹だけだ。それを見ても悲しく思えないのは、多分、自分の心もお腹と一緒に空っぽになってしまったせいだろう。 迎えの車に乗り込み、久しぶりに施設のゲートをくぐる。 病室の準備の確認のため、少しの間ロビーにいるように言われた紗耶は、椅子に座り指示を待っていた。 これから自分は一体どうなるのか。 彼女はそんなことを考えながらぼんやりと辺りを眺めていた。 その時だった。 突然、耳を劈くような轟音があたりに鳴り響き、驚いた紗耶は弾かれたように椅子から立ち上がった。 HOME |