BACK/ NEXT / INDEX



 迷いの森 

 第四章   別離  3 



同じ頃、東京の圭市も正念場を迎えていた。
後に「クーデター」とも称された、急激な権力の移譲を何とか成功させ、宗一朗を実質権限のない名誉職である会長に追いやった。しかし、その過程で内紛が表面化した結城グループの株価が一気に暴落したのだ。
信用不安による、会社存続の危機だった。


紗耶の出産までに何とか事を終わらせたいと考えた圭市は、根回しが不十分なことを承知の上で行動を起した。
彼の若さゆえの驕りとも取れる性急な行動が混乱に拍車をかけ、社内の抗争を長期化させる原因にもなったことは否めない。

義父の抵抗の激しさや、親族間の駆け引き、抵抗勢力の不穏な企みは折り込み済みだったが、新参者の圭市を侮り、これを機に実権を握ろうとする古参幹部たちの流動的な動静には一番手を焼いた。
その背後にいるのが復権を目論む宗一朗であることは明白で、圭市は、自分に従わず、造反する者は誰であれ、完膚なきまでに叩きのめした。結果、幹部重役の約3割が失職や降格、左遷といった憂き目をみることになる。
そこまでして、ようやく社内の不穏分子を抑え込んだ矢先の信用不安だったのだ。
圭市は連日深夜まで自ら取引先を回り、説明と説得を続けた。取引を渋る銀行には大口の担保を提示し、信用の回復に努めた。

グループの解体と経営存続の危機を僅か数ヶ月で乗り切った行動力と手腕は、今でも財界の語り草となっている。
これが若き日の、結城圭市のカリスマ的伝説を作ったと言っても過言ではない。

紗耶の出産が早まり、急に陣痛が始まったという知らせが飛び込んできたのは、彼がそんな騒動の真っ只中にいる時だった。



転院先の病院から何度も房枝が連絡を入れてきたが、あちらも詳細な経過が分からない様子で、互いに苛立ちが募るばかりだ。

『圭市様、何とかしてこちらにお越しいただけないのですか?』
電話の向こうで房枝が懇願する。
『お嬢様は、何度も、何度も圭市様を呼んでくれと、繰り返しうわ言のようにおっしゃられて…。お可哀想で見ておれません。どうしても駄目なのですか?』
受話器をつぶしそうなほど強く握り締めた圭市は、喉から搾り出すように低い声で答えた。
「無理だ。今ここを離れるわけにはいかない。あと数日はどうしても動けない」
『ですが、ご自分のお子様がお生まれになるのですよ。これ以上大事な用事がありますか?』
房枝の憤りが声の調子で伝わってくる。
それは圭市も同じだった。紗耶の側にいられない不安と状況が分からない焦り、そしてそれをどうすることもできないでいる自分へのジレンマ。
「どうにもならない、どうすることもできないのだ」
彼は沸き起こる焦燥を抑えるように小さく息を吐き出した。

この状況ですべてを投げ出せば、それこそ義父の思う壺だ。
そんなことになれば反旗を翻した自分が結城から排除されるのはもちろんのこと、この先、永遠に紗耶が自由を得ることはできない。何としてもそれだけは避けねばならなかった。
彼女の、そして生まれてくる子供の未来のためにも。

『圭市様』
「こちらが片付き次第にできるだけ早く渡米するから、それまで何とか紗耶と…娘を頼む」

電話を切った圭市は、握り締めた拳で書斎の机を力任せに殴りつけた。強い振動で束になっていた書類が崩れ、床に落ちて散らばる。

「なぜ…なぜ今なんだ?」

こんなタイミングで出産が始まってしまうとは、不運としか言いようがない。予定日まで、まだ2ヶ月近くあったはずだ。
それまでにはすべてを終わらせ、柵から解き放たれて晴れて自由の身になった妻と娘を迎えに行けるはずだった。
そのためだけに、今まで紗耶と自分に忍耐を強いてきたのだ。
だが、今起きている株価の暴落を食い止めるには、まだ最低でも数日の時間が必要だ。それまでは一連のリカバリーの総指揮を執っている圭市が日本を離れることは許されない。
如何に圭市とはいえ、この状況では身動きが取れなかった。


一人の男としての圭市は、全てを投げ出して、すぐにでも紗耶の元に駆けつけたいと願う。共に出産という難事に臨み、妻の手を握って、我が子がこの世に生を受ける瞬間の感動を分かち合いたかった。
だが、公人としての圭市は結城のトップとしてグループの前途を、そしてそこに属する人間や、その家族の生活をもこの手に引き受けなくてはならない。

「紗耶…」
異国で一人、さぞ心細い思いをしているであろう。
圭市は、こんな時に遠く離れた場所で何もできずに手を拱いているだけの、無力な我が身を呪った。
電話で話す時は気丈に振る舞い、彼に対して愚痴の一つも溢したことがない紗耶だが、我侭を言わないのはいつものことだ。
そんな彼女がたった一つ、何度も繰り返して彼に望んだことが「子供が生まれるときは側にいて欲しい」だったのに。
普通の夫婦ならば、何でもない当たり前のことを、ささやかに希い続けた紗耶。
自分はそんなありきたりな願いさえ叶えてやれない不甲斐ない夫なのだ、と。

『きっと、きっとよ…』
分かれる間際に空港で、囁くように繰り返した紗耶の言葉が脳裏に甦る。

「くそっ」
書斎の窓から望む夜の闇の中に、彼女が暮らしていた離れがぼんやりと浮かんで見える。
あの冬の夜、底冷えのするアトリエで生気を失ったような彼女を抱きしめながら感じた恐怖は今も彼の中から消えてはいない。




≪BACK / NEXT≫ / この小説TOP へ
HOME