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 迷いの森 

 第四章   別離  1 



紗耶が着いた先は、アメリカ中西部にある地方都市だった。
そこにある、富裕層向けの私立の療養所。
だが、療養施設とは名ばかりで、実際は通常の病院では手に負えなくなった患者ばかりが集められた、隔離病院だった。
症状はさまざまだが、身体的に重度の障害を負ってしまった患者の他に、ドラッグやアルコール依存症をはじめとした薬物中毒者、それに一時も目が離せない自殺願望者などが、完全看護と言う名目の下、厳しい監視に晒されながら生活していた。

町外れに建てられた施設の周囲には高い塀が巡らされ、外部との接触は最低限に限られている。
連絡も、携帯電話は通じない。
そんな中で、紗耶は身体の復調と、カウンセリングによる精神的なダメージの修復に努める日々を送っていた。


常駐の通訳が付いているため、生活に不自由は感じないが、通いの付き添いを制限された房枝はかなり不満なようだ。
週に3回の決められた時間内での面会。
それでも周囲から顧みられず遺棄されるようにここに収容されている患者たちに比べれば、誰かが会いに来てくれるというだけでも、救いがあると見るべきだろう。

「本当に、もう。何で圭市様はこんな所に入院を許したんでしょうかね」
「仕方ないわ。私も来るまでこういうところだとは知らなかったんだから」
今日も病室に来るなり、房枝は愚痴をこぼし始めた。
どうやらゲートに入るためのIDカードに不具合があったようだ。そこで30分近く足止めを食らい、すったもんだの挙句にやっと中に入れてもらえたらしい。

この施設に外部からつながるゲートは、たったの3箇所。
3つとも、通り抜けるには必ず施設が発行したIDカードが必要だ。
通常、ゲートは用途別に使い分けられている。
ひとつは、外部からの面会人が使う正門。二つ目は、患者が施設を出入りする際に送迎車が使う自動車専用ゲート。最後の一つは、出入りの業者や職員が使う通用門だった。
それ以外は、高い塀とその上に廻らされた鉄条網で簡単に外から入れないようになっている。だがそれは同時に中から抜け出すことも困難だ、ということでもあった。



環境は落ち着いていて、医療設備は完璧だが、外界とは完全に遮断された隔離生活。
ただでさえ心細い異国にたった一人で放り込まれた状況の中で、それでも紗耶は何とか平静を保っていた。
渡米してきた当初、紗耶は再び不安定な状態に陥った時期がある。
突然馴染みのものたちから引き離された不安と、妊娠月数が進むにつれて起こる身体の変化、それに加えて初めて経験するカウンセリングのカリキュラムが彼女を精神的に追い詰めていったからだ。
ただ、日本にいた時と決定的に違うのは、監視がしっかりしていて、少しでも体調がおかしくなり始めると、すぐさま加療措置が取られることだ。そのお陰で何とか体力を維持し続けることができたと言っても過言ではないだろう。

紗耶に精神的な変化が見られ始めたのは、胎動を感じ始めた頃からだった。
幸か不幸か、妊娠初期から体調を崩していたせいで、彼女は悪阻を経験していなかった。常に気分が悪く、食事もままならない状況では、どれが悪阻で、どれが自身の体調の悪さなのかを区別して認識できなかったからだ。

だが、胎動は明らかに胎内の子供からのもの。
それは、自分の内にあっても自分ではない、別の人格の存在を強く紗耶に知らしめた。
不思議なことに、妊娠を悟った時のような恐怖を感じることはなかった。母としての彼女の身体と心が、自分の中に息づく二つ目の命の存在を無条件に受け入れたのだ。

ただただ、自分の中に宿る小さな命が愛おしかった。
全てが流動的で、混沌とした状況に置かれていたこの時の紗耶にとって、無事子供をこの世に生み出すことだけが、でき得ることの全てだった。

この子は自分の子供であり、そして圭市の子供でもある。
正直なところ、子供の父親である圭市を愛しているかと聞かれれば、分からないとしか答えようがない。あまりにも急ぎすぎた結婚と、夫婦としての意思の疎通がないままにしてしまった妊娠は、彼女の感情をなおざりにしたことは否めない。
だがそれでも彼が示す気遣いが、紗耶の琴線に触れることは確かだった。

この子のためにも、もう一度だけ彼を信頼する気持ちに賭けてみたい。

それは不確かな心の寄る辺。
何の保証も確証もなく、あるのは自分の頼りない気持ちだけ。
恋愛経験のない紗耶は、その気持ちの根底にあるのが圭市に対する恋慕であることに気付けなかった。



こうして月日は流れ、出産予定日まであと二ヶ月を切ったが、彼女が置かれた状況は変わらなかった。
その間に圭市は一度も面会に訪れず、紗耶は週に何度かある夫からの電話を待つだけの毎日が続いた。

「身体の方は大丈夫なのか?」
「赤ちゃんなら大丈夫、順調よ。もう大分大きくなって、目鼻立ちもはっきりしてきたみたい」
「子供じゃない。君の身体のことだ。ちゃんと食べて眠れているのか?」
毎週彼の元に上ってくる報告書には、あまり芳しくない状況が書き連ねてあったが、紗耶が電話で泣き言を口にしたことは一度もない。
それが返って圭市の不安を一層大きくしていた。
できることならすべて投げ出してすぐに渡米し、彼女の側に付き添っていたかった。だが圭市にはそれが叶わない理由があった。

「大丈夫」
紗耶の方も強がってそう言いながら、本心は日本へ、彼の側へ帰りたかった。
毎日ちゃんと顔を見ることができたら、どれだけ励まされ、気を強く持てることだろう。
それでも紗耶は彼に帰国を訴えることができなかった。
というのも、その頃すでに日本では、宗一朗と圭市の亀裂が表面化しており、結城の内部は各々の閥に割れての覇権争いが勃発していた。
激しい攻防は結城グループの分断を促し、互いの支配権を奪い合っている最中であることを、房枝から聞かされていたのだ。
今帰国すれば、彼の足手まといになる。
そう思うと、どうしても我侭は言い出せなかった。

「圭市様は、できるだけ穏便に、速やかに事を収めたいとお考えのようでしたが、旦那様がなかなか納得なさらないようです。それであちこちに火種が飛び火して…」
聞くところでは、すでに圭市がかなりの力を手中に収め、父は劣勢だという。
しかし、紗耶には、あの父親が簡単に権力を手放すとは思えなかった。
自分の妻や娘でさえ手駒として扱うほど力と金に固執した宗一朗が、安易に娘婿にその地位をくれてやるとは考え辛い。恐らくは死力を尽くして抵抗しているはずだ。四半世紀の間、ビジネス界に名を馳せた宗一朗の業は深い。
結果、圭市は苦戦を強いられているに違いなかった。

そんな状況の中で、今の彼女にできることは、無事の彼の子供を産むことだけだった。
この子が生まれれば、跡継ぎの父親として、圭市の結城の中での基盤はより確かなものなるはずだ。
もはや紗耶に父親を擁護する所以はない。
宗一朗の卑しい目論みは、同時に圭市に大きな利権を齎す諸刃の刃にもなりえた。


「とにかく身体を労ってくれ」
いつものようにそういい残して、圭市の電話は切れた。
紗耶はいつまでもその受話器を置くことができないまま、ずっと発信音を聞いていた。

寂しい。帰りたい…帰りたい。

電話では吐き出せない思いが涙と共に溢れる。
その時お腹の子供大きく動いた。まるで肩を落とす紗耶を励ますように。
「そうよね。いつもあなたが一緒にいるのよね」
そして彼女はこう自分の心に言い聞かせた。

圭市はこの子が生まれるときにはきっと側にいてくれる。
だからもう少し頑張ろう。
彼は必ず来てくれる。
そう約束したのだから……。




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