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 迷いの森 

 第一章   帰郷  2 



「初め…まして?」
娘の困惑した表情を見た圭市は、小さく舌打ちすると、側に立っていた柏木と呼ばれた男に目配せした。
「柏木、すぐに行ってくれ」
彼は素早く目礼すると、美優の背中に手を当てて、彼女を引っ立てるように出口へと促す。
「またすぐに会える?」
肩越しに、混乱しながらも縋るような目で彼女を見つめる少女の口元が強張り、僅かに震えている。
「ええ」
そんな娘にどう声をかけたらよいのか分からず、彼女はただ、少女に頷いて見せた。
「絶対よ、お母様。待っているから」

母と娘が短い会話を交わした後、美優たちの後姿が人混みに消えると同時に、彼女は再びスーツケースを掴んでその場を立ち去ろうとした。

「待ちなさい。どこに行くつもりだ?」
自分に向けられた問いかけに、ぎくりとして足を止めた紗耶は、振り返ろうともせずに答えた。
「ホテルを取っているの。当分はそこに滞在することになるわ」
「わざわざそんなことをしなくても、自宅があるだろう。君を迎える準備はできている」

彼女が行方不明になっている間に売却されていなければ、都内にはまだ結城家の本宅があるはずだった。祖父の屋敷だった本宅には父親はほとんど寄り付かなかったが、かつて紗耶はその離れを宛がわれ、そこで生活していたのだ。

本来なら、自宅に帰るのが筋なのだろう。
自分が、結城紗耶であると、自らが認めたのだから。



帰国するに際して、彼女は一つの選択を迫られた。
今まで18年近く生きてきた「アメリカ人、マリア・リー」として日本に入国するか、長年行方不明であった「結城紗耶」として帰国する道を選ぶか。

「日本人として帰国する」形を取る方が、明らかに条件としては不利だった。
止むを得ないとはいえ、18年もの間、パスポートも持たず外国に不法に滞在していたのだ。身元を明らかにするためには、その間どこで何をしていたのか、現在何をしているのか、それらをすべて詳らかにしなければならない。
その上、下手をすればオーバーステイで、後日アメリカへの再入国が不可能になるかもしれないというリスクもあった。
仮にそうなれば、もしもの場合には再渡米するという逃げ道を完全に失ってしまうことになる。

その一方で、日本人に戻るに際しても、ハードルは高かった。
失踪してから一定の年数が過ぎれば、死亡と認定されて戸籍を抹消されている可能性がある。日本にいる家族が受け入れや確認を拒否すれば、彼女の存在自体が日米両国の間で宙に浮いてしまう危険性もあった。

それでも彼女は苦渋の決断をして「結城紗耶」として祖国の土を踏む道を選んだ。
今回の帰国に至った、自分の目的を果たすためには、どうしてもそうする必要があったからだ。


日本大使館からの連絡で、彼女が生存しているかもしれないという知らせが結城家に伝えられたのは、ひと月ほど前に遡る。
18年もの間、所在はおろか生死さえ分からず、周囲のほとんど皆が彼女はすでにこの世にいないと思っていたところに突然齎された報に、親族は騒然となった。
幸いなことに、彼女の戸籍はそのまま残されていた。
そして、すぐに身元の確認が行われた結果、結城紗耶本人であるとの認定がなされたのだ。

パスポートも回復し、晴れて彼女は日本人に戻った。そしてあちらで培った周囲の権力者たちのコネをフルに使い、不法滞在の咎めも何とか逃れることができた。
それでも彼女は今ある自分と以前の自分を同化させることに対して、違和感を覚えていた。
結城紗耶という一度は捨てた名を再度我が身に纏うのは、考えていたよりも受け入れがたく、物理的よりも精神的に容易ではないことを思い知らされた。



「表に車を待たせてある。来なさい」
彼は紗耶の手からスーツケースを引き取ると、それをボディーガードの一人に渡した。
「いいえ、結構です。私はホテルにチェックインして、それから少しやらなくてはならないことがありますから。あなたと一緒に行くわけにはいかないわ」
スーツケースを取り返そうと背を向けた紗耶の腕を、彼が掴んだ。
「そのホテルならば、キャンセルした。恐らく今夜、都内で君を泊めてくれるホテルは一軒もないだろう」
「何ですって?」
紗耶は驚愕のあまり、全身から血の気が引くのを感じた。
とんだ失態だ。
実名でホテルを予約したら、圭市の情報網に引っかかるという危険性を予見すべきだった。結城の名前で彼が圧力をかければ、都内の全ホテルから彼女一人を締め出すことなど雑作もないことなのだ。

「相変わらず自分勝手で傲慢で。あなたって、本当に何も変わっていないのね」
厳しい表情で声を荒げる彼女の様子に、二人の周囲に物見高い人が集まり始める。
「あそこに、あの家に帰りたくないからそうしたのに、それをあなたは…。一体あなたに何の権利があってそんなことをしたの?」
「ここでわざわざ騒ぎを起す必要はないだろう。早く来るんだ」
圭市は強引に紗耶の肘を掴むと、引きずるようにしてターミナルの外に連れ出し、抵抗する彼女をそのまま車の後部座席に押し込んだ。
「放してって言っているでしょう?私は行かないわよ。早くここから降ろしてくださらない?」
急いで座席の反対側の端に寄り、ドアを開けようとするがロックがかかっているのかびくともしない。
「無駄だ。諦めて大人しく座っていることだ」
焦る紗耶を尻目に、悠然と隣に腰を落ち着けた圭市は、滑るように走り出した車の前方を見据えている。取り付く島のない彼の態度に、紗耶は怒りを通り越して諦めのこもった溜息をついた。
やはり、状況は何一つ変わっていなかった。
彼の冷徹な態度も、何もかもを自分で勝手に決めてしまう傲慢さも、そして私がその力に抗えないことも。



車内は重い沈黙に包まれていた。
彼女も圭市も、隣り合って座っていながら互いに話しかけようとはしなかった。
その間にも、車は一路自宅へと向かっていく。
車窓の風景が流れていくのをぼんやりと見ていた紗耶は、途中、一度だけ口を開いた。

「あの子を美優って名づけてくれたのね。ありがとう、お礼を言うわ」
「美優」は娘が生まれる前、いくつかあった候補の中で、彼女が一番気に入っていた名前だった。しかし、それを直接彼に告げた記憶はないし、告げる機会もなかったことを考えれば、多分圭市は後日、誰かから人伝にそのことを聞いたのだろう。
「礼には及ばない。美優には、それ以外に君との繋がりを感じさせるものを与えてやることができなかった。だからそうしたまでだ」
「そう…」

何も与えられなかった母親。
その言葉に少なからずショックを受けた。自分でも分かっていたことだが、わが子の父親の口からそれを言われることは、思っていた以上に辛いことだった。
娘はさぞかし私を恨んだことだろう。
そして、それは自分も同じだった。運命を恨み、父親や圭市を恨み、そして自分自身の弱さを恨んだ。
過去を振り返らないと心に決めた紗耶だが、娘のことだけは一日たりとも忘れたことはなかった。
母親として、美優の誕生を喜んでやれなかったことに負い目を感じ、一度はその存在すら否定しようとした自分の愚かさをどれだけ悔いたことか。

だから空港で美優に「お母様」と呼びかけられた時に、咄嗟に何もできなかったのだ。
17年も放り出したままのわが子に対して、今更母親面なんてできないし、それを娘が許してくれるとは思ってもみなかった。どんな事情があろうとも親らしいことを何一つせずに、ここまできてしまったことに対しての言い逃れはできない。
だからこそ、今回紗耶は捨て身で美優を守るための最後の賭けに出たのだ。今の彼女が娘のためにしてやれることはこれしかないと分かっていた。
だけど…。


紗耶は我知らずに強く唇を噛み締めていた。
昔から彼女が何かを思いつめたときによくする癖だったが、その仕草を側にいる圭市が複雑な表情で見ていることには気がついていなかった。




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