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 迷いの森 

 第三章   崩壊の時  8 



圭市によって離れから連れ出された紗耶には、すぐさま入院措置が取られた。
その憔悴ぶりは、診断した医師から虐待があったのではないかとまで疑われる始末だった。
点滴と、強制的に栄養を摂らせるために、鼻からチューブを通されての流動食。
流産しないよう、絶対安静を言い渡され、面会謝絶となった。

軽い安定剤を投与されたためか、紗耶は入院して以来ずっと昏々と眠り続けている。時折意識が浮き上がり、会話を交わすことができる時もあったが、大半は眠っている状態だ。

そんな中、彼女が入院して数日後、病室に一人の招かれざる見舞い客が訪れた。
「結城社長…」
紗耶の父、宗一朗だ。
「圭市君、これはどういうことだね」
彼が娘に会うのは妊娠が判明したとき以来だ。
元来親しく行き来するような親子ではなかったし、紗耶の方も極力父親を避けていた節があった。宗一朗にしても、このまま娘が子供を産みさえすれば、後はどうでも構わないと思っていたようだが、ここにきてその子供が無事生まれるかどうかが怪しくなったことで、早速首を突っ込んできたのだ。

「しばらく安静にしていれば…子供は大丈夫だろうということです」
ただし、紗耶の精神状態については、しかるべき治療が必要であるという診断結果が出ていた。問題なのは、ここまでの症状が出てしまった以上、在宅での療養はかなり厳しく、入院治療となると国内で24時間の監視つきで治療ができる施設は限られているということだった。

「転院させる」
宗一朗はそう告げると、すぐさま秘書に指示を出した。そして、彼らが探し出してきたのは、国外、それもアメリカ本土にある専門の保養施設だった。
「すぐには無理です。まだ紗耶は動かせるような状態ではない。ましてや海外となると、飛行機で長時間の移動になる」
「それに今、患者の点滴や流動食を外すのは危険です。ようやく体が栄養の補給を受け付け始めたところで、それを止めると内臓が急激な機能低下を起す危険性があります。
あと最低10日くらいはこのまま安静にして、経過を見る必要があります」

圭市に同調するように、その場に同席していた医師は、患者が落ち着くまで待つよう宗一朗の説得を試みたが、彼は頑としてそれを突っぱねた。
「これは決定事項だ。受け入れ準備が整い次第、紗耶をあちらに移す。移動中は万全を期して医師を同行させるよう手配した。これなら文句はあるまい」
「しかし…」
「くどい。ここに置いておけば、いずれ小うるさいマスコミにも嗅ぎ付けられる。今そんなことに煩わされている暇はないはずだ」

折り悪く、先日来、結城グループの内の一社が政治家に違法な献金をした問題がマスコミの槍玉にあがっていた。巷では、いずれ近いうちに本社にも捜索が入るという憶測が飛び、社内ではその対応策に追われていた。
宗一朗は、これ以上世間の好奇心を煽るようなスキャンダルを防ぎたかったに違いない。
だは圭市は違った。
そもそも、この情報をリークしたのは、秘密裏に圭市側に着いた、反宗一朗派の役員なのだ。情報操作は慎重に行うように指示してあるので、この件はあと数日で沈静化するはずだ。しかし、今の段階で手の内を明らかにするようなことはできなかった。
すべては来るべき時のために。
しかし、同時にそれが大きな枷となってしまったことは事実だ。

「では、一週間。一週間だけ待っていただきたい。その間にプライベート・ジェットに医療器具を搭載して寝台のまま長時間搬送できるように改造します」



その日、深夜に帰宅した圭市を房枝が出迎えた。
「少しお話したいことがあるのですが、お時間を頂いてよろしいですか?」
遠慮がちに聞きながらカバンを受け取った房枝に、後で書斎に来るように促すと、彼は着替えをするために自室へと向かう。

スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを緩めながら、彼は長い息をつく。
ビジネスジェットの加装は、相場の5倍の費用で目処がついた。業者はすでに改造に取りかかっているはずだ。万全とは言いがたいが、できるだけ紗耶の身体に負担をかけないようにしてやらなければ。

ただ、彼は未だに義父、宗一朗の真意を計りかねていた。
今彼女を動かせば、子供の命も危険に晒されるという時に、なぜ義父は敢えてそれを強行しようとするのか。
宗一朗が、紗耶の子供を喉から手が出るほど欲しがっていることは承知している。しかし、彼がしようとしていることは、それに真っ向から対峙するようなものだった。
スキャンダルを防ぐ以外に、何か他に理由があるのではないか。
圭市はそんな胸騒ぎがした。


書斎に入ると、房枝はすでに中で待っていた。テーブルの上には、湯気を立てた熱いお茶が置かれている。
「この時間ですと、コーヒーよりもこちらの方がよろしいかと思いまして」
今日はすでにコーヒーを、胃がおかしくなるほど飲んだ。
会社でも、紗耶の側に付き添いながらも。

「ありがとう」
圭市は素直に礼を言うと、ソファーに腰を下ろし、房枝には向かいの席を勧めた。
「それで、話とは?」
「お嬢様の…紗耶様のご様子のことです」
彼が切り出すと、それまでにこやかだった房枝の表情が急に真剣になる。

「私は紗耶様のお母様が亡くなる直前にここに雇われて参りましたので、それまでの経緯はわかりませんが」
そう前置きした彼女は、落ち着かない様子で何度も握り合わせた手の指を組み替えている。
「紗耶様のご様子がおかしくなったのは、別荘で、妊娠に気付かれた直後からだとうかがっておりますが」
圭市が頷く。

「お母様がお亡くなりになったのも、あの別荘でした。葬儀はこちらで執り行われたのですが、何せ急で、ご会葬にもほとんど近親の方しかお見えにならなかったと記憶しております。
紗耶様は、お通夜にもご葬儀にも参列されませんでした。いえ、できなかったと申し上げた方がよろしいですわね」
房枝の言葉の意向に、圭市は眉を顰めた。
「続けて」
「お嬢様は極度の心神耗弱状態で、しばらく入院されておいででした。それは、その…」
「彼女の母親が亡くなったのだ。幼い子供がそうなっても仕方がないと思うが」
圭市が苛立ったように言い捨てた。
「ですが…ですが、お嬢様はお母様の亡骸を間近に見てしまったのです。奇しくも、第一発見者として」
「第一発見者?」
「そうです。お母様は、あの別荘の側の森の中で発見されました」
声を震わせた房枝が、一瞬言いよどむ。
「大木に…首を吊ったご遺体となって。聞いた話では、お嬢様はその側で、呆然とお母様を見上げていたそうです」

紗耶の母親は彼女が小学校に上る前に亡くなっている。まだ二十代半ばの早世だという。だが、自殺したとは聞いていない。
十数年前となると、その時すでに圭市は高校生。普通なら噂くらいは聞いた記憶があってもおかしくないはずだが、生憎とその頃彼は海外に留学していてこちらの話題はほとんど分からなかった。

「その時からでした。お嬢様が今のように夢にうなされ始めたのは。当時、しばらくは私が添い寝をいたしましたが、その時に気になることをおっしゃったのを覚えています」
圭市はその言葉に、嫌な予感がした。
「お父様がお母様を苛めていると。夜になると、お母様がお父様を怖がって泣いている、というようなことをおっしゃって。だからあの夜も、ふらりと逃げ出したお母様を追って、一人で真っ暗な森にお入りになったというのです」
そして、幼い彼女は自分の母親の変わり果てた姿を見つけてしまった。

「紗耶は今もそのことを?」
「その時は強いショックを受けたせいで部分的に記憶が欠落したようです。ですが、完全に忘れてしまっているかどうかは分かりません」
「だが、紗耶の母親の死と、今の状態が何か関係あるのか?」
その話は充分衝撃的だったが、彼にはまだ解せないものがあった。
確かに彼女は父親や祖父には愛情を与えられなかった分、母親に対する依存は強かっただろう。しかし、今の紗耶の衰弱と母親の自殺に因果関係は見いだせない。

「お母様は亡くなられた時、お腹の中に子供を身ごもっておられたようです。紗耶様は、自分に兄弟ができると知って、それはもう大変なお喜びようでした。ただ、お母様は……」
その先は、言わずもがな想像がついた。
以前に宗一朗が言っていたことや、紗耶が目撃したことを考えると、義父は嫌がる妻を無理やり妊娠させたに違いない。
「お嬢様は、自分がご懐妊を喜んだことが、お母様を死に至らしめたと思い込まれてしまったようです。そして幼心にも、母親を守れなかったことで、随分と自分を責めていらっしゃいました」

そして今、今度は紗耶自身が妊娠したことで、潜在意識の中に潜んでいた幼い頃の恐怖が彼女を苛み始めたということか。
それも、母親と同じように、意に沿わない男に無理やりに孕まされて。
圭市はその皮肉な廻り合せに、苦い笑いが込み上げてきた。

結局、自分は宗一朗と大差ないケダモノではないか。

どう綺麗事を言っても、力ずくで紗耶を犯し、身ごもらせたことに変わりはない。だが、もう何があっても後には引けない。自分と紗耶の未来ため、そして何よりも生まれてくる子供のために。


−◇・◆・◇−



一週間後、紗耶はある地方空港の特別待合室にいた。
ストレッチャーに横になったままで、側には圭市が付き添っている。
この一週間の休養で何とか容態は持ち直したが、まだ点滴が手放せず、長時間椅子に座っていることも難しい状態だった。

渡米には、房枝が同行することになった。受け入れ側には、常駐の通訳兼医療コーディネーターが待機しており、あちらに行っても不便はないはずだ。
突貫作業で改装修理を終え、準備を完了した結城のプライベート・ジェットは人目を避けるように滑走路の隅に停まっており、あとは紗耶が乗り込むのを待つだけとなっている。
今の圭市が紗耶にしてやれることは、これが全てだった。


「圭市さん」
圭市は、掠れた声で自分を呼ぶ妻のやつれた頬をそっと撫でた。
「心配しなくてもいい。何かあったら必ず駆けつける」
「私は…いいの。だけどこの子が…この子が生まれる時だけは側にいてくれる?」
それまでには、こちらのごたごたも片付いているだろう。それから先はもう、不要な干渉に煩わされることもないはずだ。
「必ず」
紗耶は添えられた手に自分の手を重ねると、頬に強く押し付けた。
「きっとよ」


1時間後、空港から1機のプライベート・ジェットが飛び立った。
離陸の直前、無理をして起き上がったであろう紗耶が、小さな窓から食い入るようにしてこちらを見ているのが分かった。

『きっとよ』

彼女が圭市に囁いた言葉。
これが、夫婦が向き合い交わした最後の言葉となった。




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