BACK/ NEXT / INDEX



 迷いの森 

 第三章   崩壊の時  7 



妊娠。
医師から言い渡された時、紗耶は身じろぎもせずにその言葉を聞いていた。

子供を身籠っているという事実を信じたくないという思いと、やはりという諦め、そして、これから自分はどうすれば良いのかという迷い。
ひどい話ではあるが、それらがないまぜになった心には、何の感情も湧いてはこない。
なぜ子供の誕生を素直に喜べないのか。
紗耶は、理由も分からぬまま、自分の心の闇に苦しんだ。


体の変調には少し前から気付いていた。
間近に妊娠した女性がいたことはなかったし、もちろん彼女にとっても初めての経験ではあるが、それでも何となくその予感はあった。
だが、自分の身体と、内なる新たな命が対話を始めた時、彼女が真っ先に抱いたのは、感動ではなく恐怖だった。

なぜ胎内の子供にそれを感じるのかは分からない。
この子は圭市の子供だ。彼は自分の父、宗一朗とは違って、きっと良い父親になってくれると思った。たとえそれが家の存続のためであっても、彼には家族を守ろうとする強さと優しさがある。ならば、父親から大切に慈しまれる子供が生まれてくることを、厭う理由は何もないはずだ。

しかし、恐怖はまったく違うところからじわじわと彼女を侵食していった。それは紗耶自身も記憶のない、幼い頃の忌まわしい体験に因をなしていることに、その時はまだ誰も気付いていなかった。




妊娠が判明した紗耶は別荘には帰されず、そのまま自宅に留め置かれることになった。ただ、まだ本宅は本格的な改装作業の途中だったため、離れに仮住まいを設け、そこを当面の居室とした。
それには物理的な問題の他にも、紗耶の強い希望があった。
相変わらず彼女は圭市を避け続けていたのだ。
最初のうち、日中は普段と変わりなく過ごしていた紗耶だが、夜になると様子がおかしくなる。眠りが浅く、うなされて上げた悲鳴を聞きつけた房枝が部屋に飛び込んでくることも度々だった。
その異常な行動を心配した圭市が、一度は一緒に離れに越してくることも考えたのだが、彼が側にいると紗耶はまったく眠れず、状況は悪くなるばかりだった。
結局、安定期に入るまで余計な興奮を避け、安静にするようにという医師からの指示で、彼女は圭市とは別々に離れで暮すことになったのだ。


一方、そんな内情を知らされない取引先や親族たちからは、結城家の跡取り懐妊の報に、あちこちから祝いの品が送られてきた。
だが、紗耶はそれらを開封もせず悉くすべて、丁寧な礼状と共に返送していた。直接持ち込んで来た客に対しても彼女が顔を見せることはなく、使用人に応対させ続けた。
まったく人前に姿を現さず、世間との交流を完全に絶ってしまうという、危行ともいうべき紗耶の振る舞いが父、宗一朗の耳に入るのは時間の問題だった。


「本当に、一体どうされたのでしょうか、お嬢様は」
離れに移ってふた月が過ぎた頃になると、連日の騒ぎに、房枝も疲労の色を隠せなくなってきていた。
当の本人は、今や昼夜逆転の生活に陥っていて、昼間は家はおろか、部屋からも出ようともしない。そして夜になると、階下のアトリエに一晩中篭っていることが多くなった。

妊娠もやっと3ヶ月を過ぎて、外出を許され、出歩くことが可能になったというのに、相変わらず彼女は外部の人間と一切接触を持とうとはしなかった。
その中には自分の父親や数少ない友人、そして夫である圭市も含まれる。
紗耶は何かにとり憑かれたように、見えないものに怯え続けていた。



「そろそろ何とかしなくては。このまま放っておくわけにはいかない」
食事も睡眠も満足に取れない状況では、彼女の体調はもとより、子どもにも影響が出る懸念がある。
それに妊娠が判ってから、紗耶は一度も病院を訪れていない。通常必要な検診さえも全く受けていなかった。
一度は状態を心配した圭市が、無理を言って産科医に往診を頼んだこともあったが、紗耶は診察どころか面談さえ拒み、閉じ篭ったまま部屋から出ようともしなかった。
その時、紗耶の精神状態が普通ではないことを医師も感じのだろう。産科医からは心療内科の受診を強く勧められていた。
「とにかく、一度話をしてみる。それでダメならば…強制的に入院させることも止むを得ないかもしれない」


その夜、圭市は離れるある紗耶のアトリエに向かった。
1階の南側に増築されたその部屋は、二方と天井に大きなガラス窓がはめ込まれていて、通常ならば陽光が降り注ぐ明るい設えになっている。だが、ここひと月、紗耶はすべての窓に鎧戸を下ろしたまま開けようとせず、日中でも室内に光が差し込むことはなくなっていた。

この数日、ついに彼女は誰とも会おうとしなくなった。今までは何とか彼女と接触できていた房枝でさえも、ドアを開けてもらえなかったという。部屋にもアトリエにも厳重に鍵をかけ、会話はドア越しで交わされる有様だ。

「紗耶、入るよ」

圭市の予想に反して、ドアに鍵はかけられていなかった。
ノブは簡単に回り、彼は苦もなく室内に入ることができたのだが…。

「これは…」
彼はその光景に息を呑んだ。

彼が最初に見たのは、一面の黒。
ドアの正面に立て掛けてあるキャンバスが、すべて絵の具の黒一色で塗り込められていた。見回した他の壁面に立てかけてあるものも、すべて同じように、真っ黒に塗りつぶされている。
その中で、彼女は真冬の凍える寒さにもかかわらず、暖房も点けずに冷たい床に座り込んだまま、ぼんやりとこちらを見ていた。

「圭市…さん?」
身重の身体を、冷えた床に座らせておくことは良くないだろう。圭市は紗耶に歩み寄ると、立ち上がらせようと彼女の手を引いた。
「何てことだ。君は一体…」
暫くぶりに触れた彼女の手は、骨が当たるほど痩せ細っていた。よく見ると目の下には濃い隈があり、眼窩が落ち窪んでいる。襟ぐりからのぞく鎖骨は深く抉れ、身体を支えたときに触れた腰骨は、突き出すようにしてスカートに張り付いていた。
まるで骨と皮しかないような身体は、一見妊娠しているとは思えないほど疲弊していた。

圭市は紗耶を側の椅子に座らせると、我を忘れて彼女のお腹を弄る。
果たしてそこには、触れてやっと分かる程度の微かな膨らみがあった。

子供は何とか無事育っている。

圭市は安堵のあまり、紗耶のお腹に手を当てたまま、その場にしゃがみ込んだ。
彼女を見た時、彼は一瞬、紗耶が気付かない間に流産してしまったのではないかという最悪のシナリオを考えたのだ。普通に考えればあり得ないことだが、今の彼女の姿はそう思わせるほど激しい衰弱ぶりだった。

「一体なぜ、どうしてこんなになるまで放っておいたんだ?今まで子供がもっていたのが不思議なくらいだ」
真っ黒に塗りつぶされた不気味なキャンバスに囲まれながら、彼は怒りと恐怖を抑えられなかった。
この様子だと、ここのところ満足に食事も睡眠も取れてはいないのだろう。
自分を含めて、何で今まで誰も彼女のこんな状態に気が付けなかったのか。


「ごめんなさい」
彼に力なく寄りかかりながら、紗耶が呟いている。
「あなたのせいではないの。分かっているのよ、でも…本当にごめんなさい…」

漆黒の絵の具は彼女の心の闇。
だが、圭市はそれを知らない。

どんなに拭っても、一度白いキャンバスに落ちた影は染みとなり、消し去ることができなかった。
だから上から黒く塗りこめた。キャンバスが真っ黒になるまで、何度も何度も。
目に触れなければ、元の白がどんなに美しかったかを思わずにすむ。そして同じように、何も知らなかった時の自分が、どれだけ無垢であったかも。
「ごめんなさい」

虚ろな眼差しで彼を見下ろす紗耶の、生気のない瞳から涙が零れる。
そんな紗耶の痛ましい姿に、圭市は思わず身体が軋むほど強く彼女を抱きしめていた。




≪BACK / NEXT≫ / この小説TOP へ
HOME