第三章 崩壊の時 6 紗耶は、そのまま体調を崩してしまったようだ。 食事をほとんど取らず、ベッドからも出られない。 「房枝さんにこっちに来てもらおうか?」 圭市はそんな紗耶を気遣ったが、「大丈夫。すぐに良くなるわ」と弱々しい微笑を浮かべながら、彼女はその言葉を退けた。 先週から房枝は所用で結城の本宅に戻っていた。もともと別荘に長期に滞在する予定ではなかったが、紗耶の様子が心配で、なかなかここを離れられなかったのだ。 やっと紗耶が落ち着き、圭市との関係も好転しているのを感じた房枝は、若い夫婦を本宅に迎える準備に戻るために、一足先に帰京していたのだ。 彼の心配を余所に、紗耶の頑なな態度は変わらなかった。 仕方なく「絶対に無理をしないように」と彼女に強く言い聞かせ、後を使用人に頼むと、圭市は一人東京の自宅へと戻っていった。 そして週末を目前にした金曜日、本宅のリフォーム業者と打ち合わせをしていた房枝は、突然玄関に現れた人影を見て、思わず驚きの声をあげた。 「お嬢様?」 そこにあったのは、別荘にいるはずの紗耶の姿だった。 その顔色は青白く、その場にやっと立っているという様子は、先日、房枝が別荘を後にした時とは別人のようなやつれ様だ。 「ただいま」 「お嬢様、急にどうなさったのですか?」 俯き加減で何も答えない紗耶に、房枝が畳み掛ける。 「何のご連絡もなしにお戻りなんて、驚きましたよ。で、もちろん圭市様はご存知なのでしょうね」 朝出掛ける時には、圭市は房枝に何も言わなかった。普段几帳面な彼は、こんな大事なことを言い忘れる人ではないのだが。 「驚きましたわ。すぐに圭市様にご連絡を…」 「お願い、あの人には知らせないで」 紗耶が必死の形相で、房枝に縋り付くようにして懇願する。 「まさか、圭市様にお知らせしていないのですか?」 房枝はその言葉に困惑し、何度も問いただすが、紗耶は何も答えず黙り込むばかりだ。よく見れば、紗耶が着ているのは部屋着のワンピースで、足元はスニーカー。荷物も持たず手ぶらで、ポケットに財布らしきふくらみがあるだけだった。 どう見ても着の身着のまま、いつもの紗耶ではあり得ない身拵えだ。 「とにかく、お上がりくださいませ」 慌てて玄関から奥へと誘うと、紗耶はゆっくりと上がり框に腰を下ろし、のろのろとした動きで靴を脱いでいる。 その常軌を逸した様子に、房枝は何かただならぬものを感じたのだった。 紗耶が居間に落ち着く間に、房枝は彼女に気付かれないように別荘へと電話を入れた。 案の定、書き置きを残したままいつの間にかいなくなってしまった紗耶を、心配した使用人たちが探し始めていたところだった。 「圭市様に連絡は?」 「入れましたが、外出中ということで、伝言を。まだ直接お話ができてはいません」 「お嬢様はこちらに戻られているから安心してちょうだい。圭市様には私が改めて連絡を入れておきます」 一旦電話を切り、そのまま圭市に連絡をすると、彼は丁度帰社したところだった。子細を心得た秘書は、すぐに電話を本人に繋いでくれた。 「……ということで、お嬢様はこちらにお戻りですから、ご心配なさいませんように」 今し方、別荘の使用人からの伝言を知った彼も、それを聞いて安堵したようだった。 「しかし、一体何があったのだろうか。週末も様子がおかしかったんだが」 「私も、何が何だかさっぱり…」 房枝のみならず、電話の向こうの圭市も困惑している様子が窺える。 「とにかく紗耶から目を離さないでくれ。これからすぐに自宅に戻る」 その頃紗耶は、房枝が入れたお茶を飲み、ようやく寛いだ表情を浮かべていた。電話を終えて居間に戻ってきた房枝が、それを見て少し胸を撫で下ろす。 「圭市様にもお知らせしておきました。ご心配なさっておられましたよ」 「あの人には言わないで、って言ったのに…」 急に顔を曇らせた紗耶を、房枝が諌める。 「そういう訳にはまいりません。それに圭市様もここにお戻りになられるのですから、このまま顔を合わせずに済ませることはできませんよ」 「ならば離れへ、あっちに行くわ。あそこなら彼と会わずに済むかもしれない」 そう言い募る彼女を見た房枝が、顔を顰める。 「お嬢様、そんなことができるわけがありませんでしょう?圭市様がご心配なさっておられることはお分かりのはずです。帰られたら一番に、お嬢様のお顔を見に来られるに決まっていますよ」 それを聞いた紗耶の表情が、目に見えて強張った。 「お願いだから、あの人を私に近づけないで」 その様子に、房枝は彼女の強い怯えを感じとった。 「お嬢様、一体何を…」 「怖い、怖いの」 「何が怖いのでございますか?何か圭市様にされたのですか?」 そんなことはあり得ないと思いつつ、房枝は紗耶に尋ねた。紗耶はその問いに強く首を振る。 「いいえ…いえ、分からない。でも怖いの。怖くて…怖くて仕方がないのよ。何が怖いのか、何で怖いのかも分からない。でも…何かが恐ろしくてたまらない」 掴み所のない紗耶の言葉に、房枝は首を傾げた。 「眠れないの。夜になると目が冴えてしまって。少しうとうとすると、またあの夢を…」 「夢?」 紗耶ははっとした表情をすると、気まずそうに顔を伏せた。 「夢とは…それはどんな夢なのですか?」 黙り込んだ紗耶は何も答えようとはしない。 「お嬢様?」 房枝が再び問いかけようとしたその時、俄かに玄関の方が騒がしくなったのに気付いた。 「圭市様がお戻りですよ」 それを聞いた紗耶が、見て分かるほど、がたがたと激しく震え始めた。 「会いたくないの。お願いだから…」 拒絶の言葉を言い終わらないうちに居間のドアが開き、その向こうから姿を現したのは、彼女が一番会いたくないと口にした男性だった。 紗耶は思わず立ち上がると、後退りする。 「一体どうしたというんだ?」 圭市は部屋に入ってくるなり、紗耶の目の前に迫った。 「何があったんだ?」 肩を掴もうと彼が腕を伸ばした瞬間、紗耶は身体を捻るようにそれを交わすと、その場に崩折れそうになった。 「紗耶っ」 圭市に抱き留められながら、彼女は必死にその腕から逃れようとした。顔面は蒼白で、今にも失神しそうになっているのが分かる。 「放して」 「大人しくするんだ。房枝さん、すぐに車の用意をさせてくれ。紗耶を病院へ連れて行く」 弱々しく抵抗を続ける紗耶を抱き上げると、圭市は脇目も振らずに玄関を目指す。その間も彼女は浅い呼吸を繰り返しながら、身を捩り続けていた。 病院に着いた時には診察時間は終了していたが、予め連絡を受けていたスタッフが通用口で二人を迎え入れた。 診察の準備をしていた医師が二、三、簡単な質問をすると、彼女はそのまま看護師と一緒に診察室へと向かった。その場に残された圭市は、状況が飲み込めないまま廊下で一人、診察が終わるのを待っていた。 「ご主人様、お入りください」 看護師に促され、圭市が診察室に入ると、そこに紗耶の姿はなかった。聞けば、処置室で点滴を受けているということだった。 「家内はどんな…?」 診察の結果によっては長期の入院などということもあるかもしれない。そうなればまた、煩い義父から横槍が入らないとも限らない。 勧められた椅子に座るや否や、逸る気に任せて質問を始める圭市に、医師はにこやかな笑みを見せた。 「ご心配いりません。奥様は、ちょっと睡眠不足と疲労で貧血を起されただけです。体質が変わる時にはよくある症状ですよ」 それを聞いて胸を撫で下ろした圭市に、医師が微笑みかける。 「おめでとうございます。奥様はご懐妊ですよ」 HOME |