第三章 崩壊の時 5 月の光が仄かに差し込む部屋の中で、低い呻き声を漏らした圭市が、身体の上に沈みこんでくる。 荒い息の中でも彼女を抱く力を緩めず、肌を撫でる圭市の手の感触は優しかった。 彼の重みでベッドに押し付けられた紗耶は、動くこともできずに、ぼんやりと天井を見つめていた。彼女の中では今、笑うべきなのか、泣くべきなのか、それとも怒るべきなのか、それさえも決めかねるような曖昧な感情の波がうねっていた。 この不思議な感覚を何と呼べばいいのだろう…? あの夜から、圭市は当たり前のように彼女のベッドに来るようになった。 そして、なぜかそれをなし崩しに許してしまう自分がいる。 彼とのセックスを「愛の行為」と呼ぶのは躊躇われた。彼がそんな感傷的で甘い感情を持ちあわせているとは思えないからだ。 しかし、だからと言って欲求不満を解消するために彼女を抱いているという感じでもない。 では、子供を作るための…生殖のためのセックス? 確かに主な目的はそうなのだろう。 だが、それだけと決め付けてしまうには、この状況はあまりにも親密すぎた。 圭市は、ことが終わった後も、そのまま彼女を腕に抱いて眠った。 自分よりも高い体温と、合わさった体から立ちのぼる彼の肌の香りに包まれて得られる安息。何物にも遮られることのない人肌から伝わる熱がこんなにも心地よいことを、紗耶は彼の腕の中で初めて知った。 だから彼を強く拒めないのかもしれない。 もっと圭市が素っ気無く、義務的に自分を抱くだけだったら、紗耶は決して彼を迎え入れようとはしなかっただろう。だが、日常生活でもベッドの中でも、圭市は常に忍耐強く彼女に接し、他人に素直に甘えることができない紗耶の心の殻を破ろうとしてくる。 それは紗耶にとって驚きであり、戸惑いでもあった。 もともと紗耶には、あまり心を許せる人がいない。 家族に縁の薄い生い立ちのせいもあるが、何より結城の後継者として、祖父から極端に交友関係を拘束され続けたせいだ。 それでも学友として親しい友人が数人いたが、紗耶が高校を退学した時点で彼女たちとも疎遠になってしまい、今ではほとんど音信がない。その上、別荘に半軟禁状態にされてからは、それまで師事していた画家の元へも通うことができなくなっていた。 限られた人間としか接することのできない状況は、今に始まったことではないが、それでもかつてない状況に置かれている紗耶には閉塞感が付きまとった。 そんな中で、圭市は半ば強引に彼女の内面に入り込んできた。そして、それを心の中で密かに許している自分がいることに、自分自身が困惑を感じているのだ。 今まで常に堅忍を強いられ、感情を抑圧してきた紗耶にとって、自分のテリトリーに他人を入れることは容易なことではない。ましてや、そのせいで自制が効かなくなりつつあるのを感じていれば尚更だ。 自分のものであっても、自分で御することのできない曖昧な気持ち。 恋らしい恋も経験しないまま結婚させられてしまった紗耶には、それが何であるかさえも分からなかった。 守られているという安心感、甘えが許される安堵感、そして身体を重ねるたびに深まる親密さ。それらにどう向き合えば良いのか、誰にも問うことはできなかったし、誰も教えてはくれなかった。 そんな中、唯一彼女にそれに馴染む術を教えてくれたのは、あろうことか自分を当惑させる張本人である圭市だったのだ。 一時は、あれほど恨んだ彼をこんなに簡単に許してしまって良いのだろうか。 そう思うと自分が取るべき態度が分からなくなる。そうして紗耶が迷いを抱いて自分の中に引きこもろうとすると、その度に彼はあらゆる手を使って彼女の心の砦を崩しにかかるのだ。 今の紗耶は、強引で一見冷淡に感じるが、その中に小さな優しさが見え隠れする彼を、好きなのか、嫌いなのかそれさえもよく分からなくなっている。 そんな感情の揺れに心を乱しながら、その夜も紗耶は温かな夫の腕の中で眠りに落ちた。 週末だけの結婚生活はそれからも続いたが、二人の日常は穏やかに流れていった。 暫くすると、それまでのようにベッドを共にするだけではなく、時間ができれば朝靄の中で、一緒に連れ立って森を歩いたりもした。 彼女の信頼を取り戻すべく誠意を尽くした圭市も、今やその手ごたえを感じていた。 その兆候として、最近の紗耶はよく笑うようになったと思う。相変わらず言葉少なで、表情は硬かったが、そんな中で時折見せる柔らかい微笑みは、彼の心を溶かすには充分だった。 自分が感じていることを、素直に吐き出してしまえば良いのに、と彼は紗耶に対して常々思っている。 世間に数多いる普通の17歳の女の子たちは、もっと我侭で自己主張が強い。自分の手の中にある、彼女たちと同年代の紗耶が、必要以上に抑圧されているとは考えたくなかった。 もっと自由に、思い通りに振る舞っても構わない。 圭市は機会がある毎に、何度も彼女にそう告げた。 だが、それは生い立ちからくる性分として、紗耶にとって簡単なことではないのだろう。彼女はいつも小さく微笑んで「お気遣い、ありがとうございます」とだけ返してくる。 その言葉に込められた、これまで誰からも自由を与えられなかった少女の頑なな心の痛々しさに、圭市は何としても彼女を守ってやりたいという思いを強くしたのだ。 元々この話を受けた時から、彼は紗耶との関係を、子供を持つためだけの、借り初めのものにするつもりはなかった。今でもまだ安定した状態とは言えないが、時間をかけてゆくゆくは彼女と共に普通の家庭を築いてゆきたいと考えているし、それは充分可能なことだとも思っていた。 最初の頃こそ、互いの気持ちが通じ合わないうちに、どんどん事態は先へと進み、退っ引きならない状況へと追い込まれてしまったが、今がそれを払拭するチャンスだと考えていたのだ。 だが、周囲の状況はそれを許さなかった。 二人を取巻く事態が一変したのは、森に立ち込める霧が一層深くなる晩秋の頃のこと。 いつものようにその週末も、彼は別荘を訪れていた。 「嫌…」 その夜、身体を重ねた後の余韻にまどろんでいた圭市は、隣で眠る紗耶がひどくうなされている声で目が覚めた。 額に玉の汗を浮かべて髪を振り乱した彼女は、半分眠ったままで必死に何かに抵抗しているかに見えた。 「紗耶」 頬を撫でて起そうとするが、彼女は手足をばたつかせて暴れるだけだ。 「紗耶、起きて」 少し強く身体を揺さぶると、やっと目を開けた彼女は、突然ベッドから飛び起きるやいなや、側に脱ぎ捨ててあったローブを羽織ってドアの外へと飛び出した。 「待ちなさい」 圭市がガウンを羽織って部屋を出た時には、すでに彼女は玄関の鍵を外し、外へと駆け出していた。 紗耶は玄関を出るとわき目も振らずに広い庭を駆け抜けて、敷地の境界へと向かっていた。仕切られたフェンスの向こう、そこにあるのは夜の闇に溶け込むように佇む、深い森の木立だった。 「紗耶?」 彼女を追った圭市は、フェンスの手前数メートルというところで紗耶に追いついた。 「どこへ行くつもりだ?」 乱暴に腕を掴み、振り向かせた彼女の顔は血の気がなく、表情は恐怖に引き攣っていた。途中で転んだのだろう、彼女は膝をひどくすりむいていて、血を流している。 それを見た圭市は、彼女の身に何が起こったのか理解できないままに、紗耶を抱き上げていた。 「さあ帰るぞ。早く傷の手当をした方がいい」 それを聞いた紗耶は、正気を失した目で彼を見ると、腕の中で暴れ始めた。 「放して」 バランスを崩しそうになった圭市は彼女の身体を肩に担ぎ直すと、足早に別荘へと歩き出す。その間にも紗耶は彼の肩の上で暴れ続けていた。 一体彼女に何があったのか。 混乱した様子とその豹変ぶりに、圭市は眉を顰めた。 彼がここに着いた時から紗耶がぼんやりとしていたのは確かだ。心ここにあらずといった風情で、話していてもちぐはぐな会話になる感じは否めなかった。 だが、それ以外にはいたって普通で、特に何かを悩んでいるとも思えなかったのだが……。 紗耶は暫く抵抗を続けていたが、力尽きたのか、途中で大人しくなった。 そして何事かを呟き続けているが、彼にはその意味が理解できなかった。 しかし、彼女のこの激しい混乱振りはどうしたものか。 ぐったりとした紗耶を肩越しに気遣いながら、圭市はその様子に言い知れない不安を感じて いた。 HOME |