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 迷いの森 

 第三章   崩壊の時  3 



カーテンの隙間から眩しい光が差し込んでいる。
その強さと角度から、すでに朝ではないことが分かった。

手を伸ばしてベッドサイドの時計を取ろうとした紗耶は、自分の身体が妙に重いことに気付いた。手だけではなく体中にだるさを感じるのだ。

ゆっくり眠ったはずなのに?

そういえば、昨夜はぐっすりと寝入ったのか、途中で一度も目が覚めることがなかった。彼が別荘に滞在している週末は、いつも緊張で眠りが浅くなり、夜中に何度も目が覚めるのに。


紗耶は起き上がると、ベッドの端に腰をかけて自分の身体を見下ろした。
外見上は、どこといっておかしいところはない。だが、肌が粟立つような、身体中が敏感になっているこの違和感は、これまでに馴染みのないものだった。

「お嬢様、お目覚めになられましたか?」
ノックと共に、ドアの向こうから房枝が問いかけてくる。慌てて鍵を開けようと立ち上がった紗耶は、足腰に上手く力が入らずそのままベッドに尻餅をついた。
「ちょっと待ってね」
弾みをつけて、何とか立ち上がった彼女は、顔を顰めながらドアへと向かった。どういう訳か、歩くたびに足が、それも股関節のあたりがぎくしゃくする。それでも何とか扉までたどり着くと、掛けられていた鍵を外した。

「おはようございます」
いつもと変わらない様子で、房枝が部屋に入って来た。
「もう11時を過ぎていますから、『おはよう』ではありませんね。よくお休みになられているようだったので、途中で声をお掛けしませんでしたから」
「えっ、もうそんな時間なの?」
壁に掛けられたアンティークの掛時計の針はすでにお昼前を指していた。
昼食をどうするか、誰かが聞きに来ても不思議ではない時間だ。いつもの週末なら、房枝が圭市と一緒に食事をするように煩く言ってくるのだが、今日に限っては、そんな素振りはまったくなかった。

「あの人は?」
「あの人とは、圭市様のことですか?」
房枝が素っ気無く聞き返す。
「ええ、その『圭市様』のことよ」
「お嬢様、仮にもご自分の旦那様にその言いようはないと思いますわ」
皮肉を込めて鸚鵡返しに聞きなおす紗耶に、房枝がため息を漏らす。
「圭市様は今朝早くに東京にお戻りになられましたよ」
「……そう」

珍しいこともあるものだ、と紗耶は首を傾げた。
今までの彼ならば、日曜日の夕方まではこの別荘に滞在して、何とか彼女と接触しようとするのに、今回はひと目も会うことなく、あっさりと自宅に引き上げたらしい。

「それよりもお嬢様、よくお休みになられたようですね」
見られることを避けるように側を通り抜けた房枝は、カーテンを纏めて窓を開けた。そして抱えていたリネンをベッドの上に置くと、今し方まで紗耶が寝ていたベッドを整え始めた。
「そのくらいは自分でやるわ」
それを止めようとして振り向いた時、身体の動きがぎこちないことを思い出す。
「私、今日は何だか変なのよ。体がだるいし、関節が軋む感じがするし、動きが緩慢になっているみたいなの。どうしたのかしら?」
房枝は微かにぎくりと体を強張らせたが、自分の変調に気を取られていた紗耶は気付かなかった。
「で、ではもう少し、このままお休みになられてはいかがです?圭市様もいらっしゃらないことですし」
「そうね、もう少し眠ってもいいかしら?何となくはっきりと目が覚めないのよ。頭の中がぼんやりしているみたいで」

それが薬のせいだと分かっている房枝は、黙々と作業を終えると、紗耶が再びベッドに入ったのを確認してから窓を閉め、カーテンを引いた。
「では、もう少しお休みください。夕方には声をお掛けしますから」



部屋を出た房枝は、廊下で複雑な表情を浮かべた。
紗耶は気付いていないようだが、辺りにはまだ昨夜の余韻が残っていた。
部屋の空気は男女の交合を思わせる独特の澱みを持ち、ベッドにも幾つかその痕跡があったのだ。
紗耶の意識がまだしっかりしていないのは幸いだった。そうでなければ、真っ先に身に覚えのないシーツの染みや、身体のだるさを疑っているだろう。
昨夜、どのくらい薬剤が効いていたのかは分からないが、紗耶の口から圭市を非難する言葉が出てこないところを見ると、どうやら彼の企みは成功したと言えるのかもしれない。
しかし、この状況が長く続けば、いずれ紗耶も不自然さに気付くであろうし、もしもこのまま妊娠などということになれば、彼とベッドを共にした記憶のない彼女が混乱するのは目に見えている。
最悪の場合、真実を知った紗耶が圭市を恨むあまり、一生彼を許せなくなる可能性もある。
それはまさしく死ぬまで宗一朗を嫌い、厭い続けた紗耶の母親と同じ行く末を辿ることにもなりかねないのだ。

それでも圭市は、紗耶に気付かれるまで、この手口を止めることはないだろう。一見非情に見えても、これは彼なりの思いやりなのだから。
紗耶の出産が宗一朗の命令である以上、安易にそれに逆らうことができないことは分かっている。
だが、人一倍繊細な感性を持った、わずか17歳の少女に課せられた宿命はあまりにも過酷に思えた。すべてが白日のもとに晒された時、果たして紗耶の心はそれに耐えることができるのだろうか。
房枝はそれを一番危惧していた。



翌週、再び彼は別荘にやって来て、前の週末と同じように振舞うと、また紗耶と接触を持つことなく帰って行った。
そして、その翌週も。

圭市が何のために別荘に来ているのか、紗耶には理解できなかった。しかし、どういうわけか、週末に圭市が別荘に来ると体調が狂い、記憶が曖昧になる自分には気がついていた。

何かがおかしい。

そう感じた紗耶は、漠然とした疑いを抱いた。
折りしも今週、彼女に生理が始まると、圭市はここに姿を見せなかった。そしてまた、彼女の体も変調を来すことがなかったのだ。

彼が別荘いる、週末にだけ起こる不可解な出来事。
彼女がその真相に思い至るまでに、それほど時間はかからなかった。




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