第三章 崩壊の時 1 週末中、紗耶が別荘の自室から一歩も外に出ることはなかった。 ドアに鍵をかけたまま、食事さえも拒んだ。 翌日、房枝をはじめとする数人の使用人たちが到着したが、宗一朗に言い含められているのか、部屋に籠もったままの紗耶の様子を見ても、誰も何も言わなかった。 彼らの話では、案の定、東京の自宅はひどいことになっているようだ。 財界の大物の一人娘が突然結婚式と披露宴をキャンセルしたことに、マスコミも動き出していた。屋敷の周囲にはスクープを狙うカメラマンたちが押し寄せ、人の出入りを張り付きで監視していて、とても家に戻れるような状況ではないという。 そこで、宗一朗とも相談の上で、当面の間紗耶をこの別荘に滞在させ、ほとぼりが冷めるのを待つことにした。 結果として、圭市が週末毎にここに通うことになったのだ。 「圭市様」 翌週末、遙々東京から来た彼を出迎えたのは、房枝だった。 「紗耶は?」 その問いに、彼女は顔を曇らせたまま首を振った。 「あなた様がお出でになると知った昨夜から、またお部屋に籠もられてしまいました」 圭市がここを立ち去った後、紗耶は少しずつ平静を取り戻しつつあると聞いていたのだが、彼の再来訪を告げた途端に、元の状態に逆戻りしてしまったようだ。 先週末も、あれから何度か話をしようと彼女の部屋のドアを叩いたが、中から応答が返ってくることはなかった。マスターキーを使えば難なく部屋の中に入れることは分かっているが、昨日の今日ではそれも躊躇われ、その時は仕方なく、何もできないまま帰京したのだ。 だが、今日こそは彼女と向かい合って話をしなければならないだろう。 先日のたった一回の行為でも、紗耶が妊娠している可能性は否定できない。ましてや今、まだ彼女が身ごもっていなかったとしても、妊娠が確実になるまでは何としてもベッドを共にしなければならないのだから。 「マスターキーを」 彼が差し出す掌に、鍵の束が渡される。この別荘のすべての部屋の鍵束だ。 ただ一室、この束の中の鍵では開かない部屋がある。 紗耶のアトリエだ。 ここだけは後付けで増築されたため、まったく鍵が違う。それを自宅のアトリエと同様に紗耶だけが持ち、彼女が自分で管理していた。 「紗耶、私だ。入るよ」 圭市は鍵を差し込むと、ドアを開けた。 彼女はいつもと変わりない姿で、椅子に座って本を読んでいたが、彼の姿を見るなり顔色を変えた。 「勝手に中に入って来ないで」 持っていた本を無造作にテーブルに置くと、彼女は圭市を睨み付けた。 「ここへ何をしに来たの?あなたの部屋は別に用意してあるから、さっさと出て行って」 投げつけられた言葉にも構わず、圭市は彼女の側に歩を進める。 「紗耶…」 「触らないで」 肩に置かれた手を乱暴に振り払うと、紗耶はそこから飛び退いた。そして、テーブルの上に置かれた果物の鉢からぺティナイフを抜き出すと、鞘を抜いて彼に向かって突きつけた。 「側に来ないで」 見ると、ナイフを握る彼女の手はぎこちなく、小刻みに震えていた。 「紗耶、そんなものを抜くのは止めなさい」 「来ないで。刺すわよ、本気なんだから」 それでも近づいてくる圭市に、紗耶は腕を振り上げたが、反対に易々と手を捻られ、ナイフを奪い取られてしまった。 「止めなさい。こんなことをしても、怪我をするのは君の方だ」 圭市は、もぎ取ったナイフを片手で鞘に戻すと、テーブルの上に放り投げた。もう片方の手は彼女の手を押さえたままだ。 「放して」 死に物狂いで抵抗を続けている姿を見た圭市は、暴れる彼女を無理やり椅子に座らせた。 「落ち着いて、少しは冷静になってくれ。これでは何も話ができない」 「話?もうそんなことをする必要もないでしょう?」 紗耶は唇を震わせつつも、怒りを込めた目で彼を見据えた。 「私は式の前に…こうなる前に何度も話をしたいとお願いしたはずよ。それをすべて、悉く撥ねつけたのはあなたの方じゃないの。一体今更何を言いたいわけ?」 彼女の言い分は尤もだが、これではいつまで経っても堂々巡りだ。 圭市は深い溜息とともに肩を竦めた。 「いつまでも意地を張ってこんなことをしている訳にはいかないんだ。私たちに無理難題を突きつけているのは、結城の家長である君の父親だ。彼の意思は簡単に覆せない」 「それでは、言われるがままに、好き放題されていろとでも?冗談じゃないわ」 そこで彼女は思い出したように、身を震わせた。 「でも、私が何を言っても無駄なんでしょうね。あなたたちは絶対に自分の非を認めようとはしないのでしょう?」 紗耶は半ば諦めのこもった悲しげな目で彼を見た。 「あなたは、あなただけはあの父や、冷淡だった祖父とは違うと思っていた。でも、結局あなたも彼らと同類だったのよね。だから無理やり力ずくで私を…。そうでしょう?」 その言葉に一瞬、彼の拘束の手が緩む。その隙をついて立ち上がると、紗耶は部屋続きになっているバスルームへと逃げ込んだ。 「もう私の前に姿を見せないで。早くこの部屋から出て行ってよ。そして二度とここに来ないで」 興奮して、ドア越しに捲くし立て続ける紗耶を残したまま、圭市は部屋を後にした。そして、廊下で心配そうに聞き耳を立てながら待っていた房枝に持って出たペティナイフを渡すと「今後絶対にあの部屋に刃物を置くな」と、厳しい口調で注意した。 自傷癖があるとは思えないが、それでも自暴自棄になった紗耶が、発作的に自分を傷つけないとも限らない。 「圭市様、お嬢様は…?」 無言で首を振る圭市に、房枝も落胆を見せる。 「しっかりしていらっしゃるようでも、紗耶様は17歳になったばかり。普通ならばまだ、お友達と楽しく過ごされているお年ですからね。 お嬢様のお母様ですら、ご結婚なさったのは高校を卒業されてからのことでしたのに。いくらお生まれになった環境が特異であったとしても、これではあまりにもお可哀想です」 「だが、すでに話は動き出してしまった。後は最善を尽くすしかない」 だが、それには一番守らなくてはならない相手であるはずの紗耶を、不本意ながらも彼自らが追い詰めことになる。 圭市にとっても逃げ道のない、難渋を極める選択だった。 結局その週末、圭市は何もできないままに帰京した。 紗耶は部屋から一歩も出ず、食事さえも自室に運ばせて、彼との接触を拒み続けた。 当然、その状況は逐一東京の宗一朗に伝えられていて、屋敷に戻ってきた圭市は早速義父となった宗一朗に呼びつけられた。 「来年の秋までに何とかしろ」 彼は容赦なく期限を切ってきた。まるで、紗耶が子供を産むことを、ノルマの達成か何かと同じに思っているかのような口ぶりだ。 仮にも自分の血の繋がった孫が生まれようかという時に、一体この男は何を考えているのだろうか。 それほど執着しなければならないほど、結城の名と金が大事なのか。 虚しく、殺伐とした思いが頭を過ぎる。 金輪際、彼の影響下に紗耶を、そしてまだ見ぬ我が子を置くことはしたくない。 しかし、悔しいが今はまだ何もできない。 彼に手向うには、それに見合うだけの実力をつけなければ、急いで事を起しても捻りつぶされるだけだと分かっているからだ。 だが、いずれ必ずこの柵から彼女を解放してみせる。 この時、圭市は固い決意を胸に秘めたのだった。 HOME |