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 迷いの森 

 第二章   廻る運命の歯車  6 



「一体これからどうするつもりだ?」

改札を出てタクシー乗り場に向かう紗耶の腕を、誰かが後ろから掴んだ。
振り返らなくても声の主は分かる。圭市だ。
紗耶は何も言えず、ただ自分を捕まえる大きな手を見ていた。


中央本線に乗った時点で、すでに彼女の所在は突き止められていた。
紗耶が目指すであろう場所の、最寄り駅に車で先回りした圭市は、そこに彼女が着くのを待っていたに過ぎない。

「思ったよりも、捕まえるのに時間がかかったようね」
紗耶は内心の動揺を隠しつつ、平静を装った。列車内で何もなかったことで、もしかしたらまだ自分の行方はつかまれていないのではないかと僅かに期待したが、やはり見通しが甘かったようだ。
「いや。君が東京を出る時にはすでに見つけていた。だが、そのまま泳がせておいただけだ。もうどうしようもなかったからね」
それが今日の式と披露宴のことを指していることは重々承知だ。
「乗って」
彼は側に停めてあった車の助手席のドアを開けると、彼女に乗るように促した。

「私はタクシーを使いますから結構です」
「いいから、早く乗るんだ」
抵抗する紗耶を強引に座席に押し込むと、彼は素早くシートベルトを着けてからドアを閉めた。
圭市が車の前を回って運転席に向かうのを見た紗耶は、ベルトを外して車を降りようとしたが、一瞬彼が乗り込んで来るのが早かった。
「何をしているんだ?」
「降ります。降ろして」
「ダメだ。すぐに着くから大人しく座って」
彼が素早くドアをロックすると、車はロータリーを回りそのまま本線へと出てしまう。加速していく車の行き先はどこなのか。
不安に駆られる紗耶の考えを読んだ圭市が、前を見つめたまま冷ややかな声で言う。
「心配しなくても、行き先は君の希望通りの場所だ。場所は聞いたし、鍵も借りてきた」
紗耶は無言で窓の外に目をやった。
圭市は一体何を考えているのだろう。
今からならば、夕方までに充分東京に帰ることができるはずだ。それをわざわざ別荘へ向かうのは何故なのだろうか。
彼女の戸惑いを余所に、車はゆっくりと市街地を抜け、高原地帯へと入っていく。別荘が近づき、見覚えのある風景が車窓を過ぎるたびに、否応なしに彼女の緊張は高まっていった。



着いた別荘は、建物自体はそう大きくはないが、周囲を広い庭と雑木林に囲まれているために隣りの区画とはかなり離れている。敷地の境界を示す高いフェンスのすぐ向こう側は、原生林の残る「森」に隣接していた。

「今日はまだ誰も来ていないはずだ。君とゆっくり話し合わなくてはいけないからね。邪魔に入られたくない」
そう言って車を降りた圭市は、ポケットから鍵を取り出して入口を開けた。
そして、ぐずぐずと降りようとしない紗耶を車から引っ張り出すと、建物の中へと引っ立てた。

しばらくぶりに来た別荘だが、維持管理は通いの管理人がしているため、掃除は行き届いている。それでも人気がなく静まり返った別荘は不気味な感じさえした。
広いリビングへと入ると、圭市は疲れた様子でソファーに身を沈め、何か考え事をするように、しきりにこめかみのあたりを擦っている。
いつも冷静で、滅多に感情を露にすることがない圭市だが、今日は珍しく苛立っているのが分かる。
彼の機嫌がかなり悪いことは、火を見るよりも明らかだ。自分がしてしまったことを考えれば、仕方がないことではあるのだけれど。


「あの、今日は…」
気詰まりな雰囲気を誤魔化そうと、おずおずと紗耶が口を開いた。
「心配しなくても式は中止した。披露宴は新婦の…君の体調不良ということでキャンセルしたから問題ない」
問題ないとは言いすぎだ。
実際は中止を決めた時点で、すでにかなりの招待客が来場していたのだが、適当な理由をつけてお引取り願った。顔を潰されたと激怒している宗一朗を何とか宥めて、後始末を押し付けてきたのだ。
今頃は彼もあちらこちらへの対応に追われていることだろう。

「では、式は…この結婚はなかったことになったのね」
彼女の声に安堵が滲むのを聞いた圭市は言いようのない苛立ちに駆られた。
一度は合意したこの結婚に、なぜ今更尻込みするのかが分からない。たとえ彼女が精神的には未成熟の子供だとしても、結城の名の下にある責任の重さは自覚してもらわねば困る。
現実を直視すれば、今自分が置かれている立場も自ずと理解できるはずだ。

「いや、婚姻届は代理人が提出しているはずだ。君と私は既に夫婦だ。戸籍上はね」
その言葉に、紗耶は唖然とした。
「私はそんなものを見た記憶はないし、書いた覚えもないわ。一体どういうこと?」
「書類の偽造はいくらでもできる。ましてや君の場合、親の同意書が添付されるのだから、役所は真贋を見抜けない」
「そんなばかなことが…」
「世の中にはいくらでもある、ということだ」

紗耶は傍らにあったバッグを掴むとドアに向けて踵を返した。
「どこへ行く?」
「家に帰ります。帰って…ちゃんと確認しなければ。もし本当にそんなことになっていたら…」
「どうする?今更騒いだところで、もうどうにもならない」
「でも」
「帰ったところで混乱に拍車をかけるだけだ」
そう言い切る彼の横顔は、見たことがないほど冷淡だった。
「それに、あちらが今どういう状況になっているか、君にも想像はできるだろう」


多分屋敷は大混乱になっているだろう。
彼女が帰ってきたのが見つかれば、父親からきつい叱責を受けるのは目に見えている。だが、それでも事実を自分の目で確かめたかった。
それに誰もいない別荘に、このまま彼と二人きりで留まることはできない。

「それでも帰ります。あなたもすぐにお仕事に戻らなければならないんでしょう?だったら…」
「この週末は何も予定していない。それは君も知っているだろう?」
今日の結婚式と披露宴、それに明日、明後日とは圭市も休みを取っていた。
こんな形の結婚なので、元々新婚旅行は計画していない。それでも超多忙な彼が、週末と重なるとはいえ連休を取るのは珍しいことだ。

「では、あなたはここに残るということ?」
「私だけでなく、君もだ」
「何で、私まで?」

紗耶の問いかけに答えることなく、圭市は席を立つと窓から外を見た。
「ここは静かだな」
まったく関係のない呟きに、苛立つ紗耶は彼の背中に詰め寄った。
「答えて。どういうこと?」

圭市はゆっくりと振り返ると、不機嫌そうに目を細める。
「ここに私たち以外には誰も来ないことは話したね」
紗耶が頷く。
「この別荘は静かでその上人の目がない。新婚初夜を過ごすには、打って付けの場所だそうだ」
その言葉の意味するところを悟った彼女の心臓が、どくりと撥ねる。
「そ、そんな。まさか…」
思わず後退りする彼女を見据える彼の態度は、突き放すようでひどく冷たかった。
「君の父親に言われたよ。ここで名実共に…夫婦になって来いとね」




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