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 迷いの森 

 第一章   帰郷  1 



―― 18年後、新東京国際空港


離れて久しい母国は懐かしい匂いがした。

長時間のフライトを終えた彼女は飛行機を降り、サテライトを歩きながら、窓の外に広がる景色を見て小さく息を漏らした。
もう思い出せないくらい、遠い過去となってしまった日々。
この国を出てからの時間が、ここで生活した年月と同じだけ過ぎたことが信じられなかった。
そして、自分が再びこの国に戻ってきたことも。



ターミナルに着くと、到着便別の表示に従い、ターンテーブルから荷物が出てくるのを待つ。
スカーフで目印をつけた大きなスーツケースの取手を掴んでいると、横にいた若い日本人男性が代わりにテーブルから引き上げてくれた。
「Thank you. ああ、ごめんなさい。ありがとうございます」
「いえ、どういたしまして」
咄嗟に出た英語に、彼女は思わず苦笑いを浮かべた。
ここは日本。
もう英語で話す必要はないのに、長年の生活で染み付いた習慣はすぐには抜けなかった。

助けてくれた男性に軽く会釈をして微笑むと、入国審査に向かい、税関を抜ける。
そして国際線のゲートを出た彼女は、案内板を頼りに真っ直ぐにタクシー乗り場を目指した。


空港の混雑はどこも同じね。
彼女はごった返す人ごみを交わしながら、出口へと向かう。
その途中、観光客の手に握られた、TDLのキャラクターがついた土産袋に目が留まり、懐かしさに思わず足を止めた。
あのアミューズメント・パークに友人たちと最後に遊びに行ったのは、彼女が高校に入ってすぐの夏休みだった。あの時はまだ、一年後に起こる忌まわしいことなど思いもしなかった。
学生生活を楽しみ、恋愛に悩み、学業に勤しむ。普通の高校生が当たり前にすることを、彼女も当然のものとして受け止めていた。根拠のない不安と傲慢なまでの自信、それを裏打ちする純粋さと若さに満ちていたあの頃の自分には、輝かしい未来が待っていると信じて疑うこともなかった。

そう、あんなことさえなかったら…。

「いえ、もうすべて過去のこと。忘れなさい」
彼女は小さく首を振り、自分に言い聞かせるようにそう呟くと、再び足を踏み出した。
前へ。ただ前へと進むこと。
それだけを考えて、今まで生きてきた。
後ろを振り返ってはいけないと念じるように自分に言い聞かせながら、どんなにひどい境遇に陥っても耐えてきたのだ。その過去を変えることはできないし、今更それを思い煩って何になるというのか。



航空会社のカウンターや土産物店の前を抜け、足早に出口を目指した彼女の視線は、到着便から降り立つ人々を待つ一群の中の一人の男を捉えた。
途端に心臓が跳ね上がり、緊張のあまり足が震えた。
そこにあったのは忘れもしない、忘れられない男の姿だった。
記憶よりも幾分老けて落ち着いてはいたが、変わらない眼差しの鋭さ。18年の歳月の流れを感じさせない逞しい体躯は高級なスーツに包まれ、一分の隙もない完璧な装いで覆われている。

彼女が進む先に待ち構えるように立つ彼の後ろには、数人の黒ずくめのスーツ姿の男たちが控えている。多分秘書やボディーガードの類だろうが、彼らのいる一角だけ、混雑の中で他の客が避けるように寄り付かない奇妙な空間を作っていた。


やることのあざとさは、相変わらずね。

彼女は長年の努力で身につけた自制心で一瞬にして表情を殺し、真っ直ぐに前だけを見据えた。そして、何も目に入っていないかのような所作で彼を黙殺し、奇妙な一団の前を通り過ぎようとした。

「紗耶」
彼の声は耳に届いたが、無視した。
もうとっくに捨てたと思っていた名前だ。
それをあの男に…あの声で呼ばれるのは過去の悪夢を穿り返されるようで嫌だった。

「紗耶」
再び後ろから呼ぶ声が追いかけてきたが、彼女は振り返らなかった。
歩みを止めたら最後、彼は彼女を捕らえにかかるだろう。そして、再び意のままに操ろうとする。
18年前の、あの頃のように。


その時、背後の声を振り切り、足早に先を急ぐ彼女の腕を誰かが掴んだ。
振り払おうと無言で上げた視線の先にあった手は、思っていたような男のものではなく、繊細な女性のそれだった。
自分の腕に縋る若い女の子に目をやると、見覚えのある制服が目に入った。それは彼女の母校だった高校のものだった。彼女も一年だけ着ることが出来た、懐かしい制服。それを着た彼女を見つめる少女は目に涙を浮かべて、唇を震わせていた。

「あなたは?」
「お…母様?」
女の子はそれだけ言うと彼女の胸に縋り付いた。

「美優」
いつの間にか側に来ていた男は、突然のことに金縛りにあったように動けないでいる彼女から、無理やり少女を引き離した。
「何でこんなところにいる?絶対に来てはいけないと言っておいただろう」
「でも、お父様…」
「すぐに学校へ戻りなさい。柏木」
「はっ」
男の後ろにいた一団の中から、グレーのピンストライプのスーツを着た一人の男性が前に出てきた。
「美優を学校まで送り届けてくれ」
「いやよ。私は行かないわ」
少女が反抗的な目で男を睨み付ける。
「言いたいことは後で聞こう。だがそれは今ではないことは、分かっているだろうな。柏木、連れて行ってくれ」
「畏まりました。では美優様、参りましょうか」
彼はそう促すと、先に立って出口へ向かおうとする。少女はまだ何か言いたげな険のある目で男を見返すと、くるりと踵を返した。
彼女にも覚えのある、よく似た表情と仕草。
それはちょうど18年前、彼女が自分の父親に向けていたのと同じ眼差しだった。

「待って」
彼女は咄嗟に二人を呼び止めると、少女の側へと歩み寄った。
「あなたが…あなたがそうなのね。あの時の…私の娘なのね」
少女は立ち止まり、彼女の方に振り向いた。
「お母様」
広げた彼女の腕の中に少女が飛び込んでくる。
「ああ、何てこと。私の小さな赤ちゃんがこんなに大きくなったなんて。美優…さんというのね?初めまして。あなたに会えて…嬉しいわ」




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