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蒼き焔の彼方に  4


翌日、天気はそこそこよく晴れていた。
予定より少し遅れて8時半過ぎ、よくやく一行はホテルを出発した。
「ゴメン、聖子。本当にゴメン」
ロビーでは、佳奈が泣きそうな顔で聖子たちを見送っている。

朝起きて一番にトイレに駆け込んだ佳奈は、沈んだ様子でそこから出てきた。
「来ちゃった、急に。まったくの予定外」
そのあまりの落胆振りに、聖子は彼女の肩を抱き寄せて背中をぽんぽんと叩いた。
「仕方がないよ。佳奈が悪いわけじゃないし。今日は宿で安静にしてた方がいいよ。いつも辛いでしょう?生理痛」
「でも、ちょっとくらいなら無理しても…」
「止めておいた方がいいって。途中で動けなくなったらそれこそ大変だし。森先輩には生理痛だなんて言わなくても、体調不良って言っておけば大丈夫だよ。」
「行きたかったなぁ。トレッキング…」
佳奈はぽつりと呟くと、大きく肩を落とした。
「また機会があるって。今日は無理をせずに、止めておきなさいよ。その間に不参加組のお土産でも物色しておいて」



佳奈の欠席でトレッキング・ツアーに参加するのは12人となった。
男性9人、女性3人。
聖子の他に二人の女性社員が参加していたが、彼女より年配の、ほとんど話をしたこともないような人たちだった。
「東さん、平気?」
ここでもまとめ役になっている幹事の森が、一人で歩く聖子に気を使って、度々声をかけてくれる。
「大丈夫です。マイペースで行きますから」
「何かあったらすぐに知らせて。いろいろと頼まれれているんだ、君のこと」
誰からとは言わなかったものの、それが佳奈であることは疑いようがない。
いつも佳奈は聖子に対して、ヒナを守る親鳥のように気を使ってくれる。そのあまりの過保護ぶりに最初は聖子の方が戸惑ったくらいだ。だが、付き合っていくうちに仕切り屋の彼女にとっては、それが呼吸をするくらい自然なことなのだと気付いてからは、次第に気にならなくなった。
そして今では彼女と知り合うことができて、本当に良かったと聖子は心から思うようになっていた。
「ありがとうございます。そうさせていただきます」

予定のコースはあまり標高のない里山の縦断で、注意書きの看板やコース・ガイドは整えられているし、ところどころに整備された避難小屋もあった。
「では、少し早いですが、休憩にします。この近辺で各自昼食をとってください」
幸いにも天気が良かったので、お昼は外でということになった。
皆思い思いの場所で、宿で手配してもらったお弁当を広げながら、歓談している。
「ご一緒させてもらってもいいかな」
聖子が弁当を食べていると、森が側にやって来た。
「どうぞ」
脇によって、ベンチ代わりの大きな石にスペースを作る。
「ありがとう」


「一緒に来られたらよかったんですけどね」
主語はないが、誰のことを言っているのかは彼も分かったようだ。
「体調不良なら仕方がないさ。旅先で無理をさせて、悪くなったら困るしね」
「でも、彼女楽しみにしていたんですよ、先輩も一緒だし」
森は少し照れたように笑うと、頭をかいた。
「君も旅行に参加してくれるって聞いた時には驚いたけど、嬉しかったよ。お陰で野郎も何人か増えたし」
「えっ?」
驚いた表情をする聖子に、森が不思議そうな顔をした。
「君、本当に気がついていないんだな。社内でも君と親しくなりたがっている男が結構いるんだよ。佳奈が、いや水上ががっちりガードしているから、迂闊に手が出せないだけで」
「そんな…私なんて」
「ほら、見てみろよ。あちこちから見られている。あいつら、みんな君に話しかける機会をうかがっているのさ」

他のグループの男性社員が数人、二人の様子をちらちらと見ているのが分かった。
「今日は一応番犬の役目を仰せ付かっているから、寄せ付けないようにする。安心して」
佳奈は聖子が男性に対して嫌悪を抱いていると思っている。だから、自分が行けないと分かるとすぐに、森に頼んだのだろう。
実際、聖子は男性と付き合った経験がほとんどない。
それは好きとか嫌いという類のものではなく、一人の人間と長時間一緒にいることが苦痛だからだ。

―― エンパス
それは、彼女が持つ特殊な能力の一つで、他人の思考を自分が受信体になって感受してしまう、厄介な力。
普段はシールドを張って遮断しているが、何かの拍子にそれが綻びると、望もうが望ままいが途端に相手の考えていることが一気に自分の中になだれ込んでくる。
彼女にとってそれは混乱以外の何者でもない。
ましてや相手に悪意を持たれていたりすると、忽ちに彼女の意識は負の方向に乗っ取られてしまうのだ。

実は聖子が佳奈と常に一緒にいられるのは、佳奈の意思とは関係なく、彼女が自らの思考を遮断する能力を持ち合わせているからだ。
佳奈自身、無意識にそれをやっているようで、自覚は全くないらしい。
だが、聖子は彼女ほど自分の思考を強力に封じ込めることのできる人間に未だ嘗て会ったことがなかった。

「ありがとうございます。助かります」
「お安い御用さ。でも、君も誰かと付き合いたいとか思ったことはないのか?このままだと、水上が寄ってくるやつらを片っ端から全部追っ払ってしまうぞ」
そのやれやれという口ぶりに、思わず笑みが零れる。
「大丈夫です。彼女のような友達がいて、本当にありがたいと思っています」
「ならいいけど。それじゃぁ、そろそろ片付けて出発しようか。このまま午後も天気がもつといいな」



生憎、正午を過ぎる頃から少しずつ風が強くなり、雨雲が出始めた。
後半の行程は山頂付近まで上って、反対側のハイキングコースから下山することになっていたが、天候が思わしくないために、途中で引き返すことに決まった。
雲が出始めて1時間と経たないうちに雨粒が落ち始め、参加者は急いで雨具を着るはめになった。そのうえ、悪い時には悪いことが重なるもので、一緒にトレッキングに来ていた社員が雨でぬかるんだ道で足を滑らせて捻挫をしてしまい、森が同僚をおぶって下山することになってしまったのだ。

「みんなできるだけ先に下りてくれ。僕は最後尾を行くから」
ガイドに先導された者たちは、激しくなる雨の中で先を急ぐ。
体力には自信があると言っていた森だが、下りの山道は普通とは勝手が違う。怪我をした同僚の荷物を預かることになった聖子は森のすぐ前を歩いていたのだが、いつの間にか森が遅れだし、気がついた時には後ろに彼の姿がなかった。

「森先輩?」
立ち止まって森の姿を探すが、辺りには霧が立ち込め、2、3m先も見通せないほど煙っている。前を行っているはずの同僚たちの姿も、彼女には見つけることは出来なかった。
「困ったな」
仕方なく、聖子は一人で雨水が滝のように流れる登山道をゆっくりと下り始める。
雨で遮られた視界に、感覚を狂わされ、自分が来た道と全く違う方向に歩いていることに気付いたのは、それから暫く経ってからのことだった。




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