吹野のおばば様が息を引き取った。 そう知らせを受けたのは、瀧澤家の庭園の様子を見に行った直後のことだった。 あの夜、突然の豪雨と地震により瀧澤本宅の一部と庭が大きく陥没したとの報告を受けた自分は、明け方に急遽、現場へと向かった。駆けつけた庭園では、地面が大きく抉られたようになっていて、その上に裏山の崩落で流れ込んだ土砂がかなり堆積して見るも無残な様相を晒していた。 折も折り、主である瀧澤の総領、和久様は新月の祭事で聖域に篭っており、屋敷は管理者が不在になっていた。警備上も放置しておくことはできないので、総領が戻るまでの間、離れのオフィスで状況の把握に努めることにしたのだ。 入ったことこそないが、陥没が起きた部分に、瀧澤家の霊廟があることは知っていた。その存在は、関口の家に生まれ、瀧澤家に仕えることになった人間には必ず伝えられることだ。 関口自身も、先々代、先代と二代の総領に仕えた、今は亡き父親からそのことを教えられていた。 自宅でサダの死を見取り、彼に連絡を入れてきたのは、妻の美和子だった。 彼女は元々この村の出身者ではない。 彼が大学で学ぶために外に出た際に知り合った、まったくの部外者だ。 最初、都会生まれで都会育ちの彼女と結婚したいと周囲に告げた時、一族中の猛反対にあった。 当時の親族の中では、彼が関口の家を継ぐ者である以上、事情を良く知るこの村の娘たちの中から妻を娶るべきだという意見が大半だったからだ。 外から見れば甚だ時代錯誤と思われるかもしれないが、確かにそれはある意味妥当な考え方だった。 この村は長い間閉ざされた場所だった。ゆえに今でも古くからの慣習や、云われも分からないような行事や風習が数多く残っている。それに加えて田舎特有の家同士の付き合いも多く、外から入ってくる者が馴染むには相当なストレスがかかるのだ。 だが、まだ若かった自分は反発し、どうしてもそれに従うことができなかった。彼女を連れて家まで行っても両親に話さえ聞いてもらえず、思いつめた挙句に一時は家族や家を捨て、勘当覚悟でこの地を離れることさえ考えたほどだ。 「坊よ、そんなにその娘御と一緒になりたいのかね」 そんな時、自分に声を掛けてくれたのが、昔から関口家の離れで暮らしていた、吹野のサダさん…おばば様だった。 自分が物心ついたときからすでにそこに住んで居た彼女は、いい大人になった今でも、まるで子供に呼びかけるようにのように「坊」と呼ぶ。 「娘さん、あんたはここに来ても苦労するだけかもしれんぞ。それでもこの男と一緒になりたいと、本気で思っておるのかね?」 その問いかけに、美和子はただ黙って頷いた。今まで散々関口の親族たちに否定され続けていた彼女は、自分から声を掛けてきた老女に驚いたようだった。 「お前様も、何があってもこの娘さんを守ってあげられるだけの、決意があるのかな?」 「ええ」 自分も大きく頷いた。 「そうか」 おばば様はただ一言そう言うと、さっきまで自分たちがいた関口の母屋の中へと消えて行った。 それから数日後、彼と美和子は突然関口の両親から呼び出された。そして、信じられないことに、その場で結婚の承諾を得ることができたのだ。 なぜ両親をはじめとして親族たちが、急に態度を変えたのか。 それは恐らくサダの口添えが大きく効を奏したのではないかと思っている。 サダは昔から不思議な存在だった。 いつからそこに住んでいるのかは分からないが、関口の人間なら、一度は彼女の世話になったことがあると言われるくらいに、影響力のある老人だ。 今までにも、何度もこういうことがあったということを後で聞いた。外の世界に対して否定的だったという祖父も、変革を嫌った父親も、彼女の説得には屈せざるを得なかったのだと。 結婚してからも、何かと問題が持ち上がれば、それとなくサダが手を回してくれていたようだった。美和子もサダのことをよく慕っていたし、サダの方も彼女を可愛がってくれていた。 村の行事や風習などについては、どうしても余所者という考えを拭えず、関わりの薄くなった関口の両親よりも、サダに教わったことの方が多いくらいだろう。 そんなサダが、過去に一度だけ、美和子に声を荒げたことがあった。 あれは二人が結婚してから暫くした頃、関口家の墓掃除に行った時のことだ。 関口には昔から2箇所の墓所があった。2箇所といっても、区画で区切られているだけで、それらを総じて関口家が管理しているものだ。 一つは今の自分の先祖たちの墓。 そしてもう一つは、元々本家だった家の者たちを弔った小さな塚だ。 関口家は、ここに来てから一度完全に途絶えていた。現在の関口の家は、当時の傍系が再度興した家だと伝えられている。 自分たちの先祖の墓はいつも清掃が行き届き、草一本生えていないのに、元の本家の墓所は荒地の小山のような状態で放置されている。自分は昔からそれを見ていたので別段不思議に思うこともなかったが、美和子にはそれが不信心にみえたらしい。 そこで彼女は思いついたように隣の区画に入ると、草を刈り始めたのだ。 「放っておいた方がいい」 「でも、このままだとあんまりだわ」 彼女は自分が止めるのも聞かず、掃除をし続けた。 その時だった。 「そこに入ってはならん」 声に振り向くと、いつの間に来たのか、自分の背後にサダが立っていた。 「早くこっちへ出てくるのじゃ」 いつになく厳しい口調に、美和子も動きを止めて驚きの表情を浮かべている。 「何をぼさっとしておる。お前の嫁を早くこっちへ引き戻して来い」 サダに一喝された自分は、慌てて塚の上で草をひいていた妻をそこから引き摺り下ろした。 「よいか、この塚には…墓には絶対に触ってはならん」 「でも、おばば様、ここもご先祖様のお墓では…?」 合点がいかない美和子はサダを問い詰めた。 「確かにそうじゃ。だが、ここに葬られているのは、邪な心を持った者たちばかりじゃ。下手に仏心を出して近づけば、この世に未練を残したままの悪霊たちにつけこまれ、とり憑かれてしまうぞ」 「そんな…」 「分かったら、二度とそこには近づくでない」 まだ納得がいかないようだったが、それでもサダの厳しい口調に頷いた美和子は、その後二度とその塚に触れることはなかった。 ここ数年、頓に体調を崩すことの増えたサダを、美和子は自ら進んで世話し続けていた。 「おばば様はここでの親代わりみたいなものだから」 そう言って、自分の出張中には、子供を連れて離れに泊り込んだりもしていたようだ。だがら、今回おばば様が亡くなったということに一番ショックを受けているのは、他ならぬ妻ではないかと思う。 サダの容態が急変した時にも、側に居ていち早くそれに気付いたのは美和子だったという。 「あなた、おばば様が…」 泣きながら電話をしてきた妻は、サダの最後を看取り、遺言書を託されていた。 彼が葬儀の喪主を務めることが決まった通夜の席で、その遺言書を開封した関口は、思わず首を傾げた。 というのも、その内容は今までのサダの言動とは相反するものだったからだ。 「何でわざわざあの場所に?」 サダは自分の亡骸を、あの本家塚の敷地の中に埋葬するように遺言していた。 それも今はこのあたりでも滅多に見ることのなくなった、土葬で。 そして、その棺が朽ちるのを待って、崩した塚もろとも土を盛って埋めてしまってほしいとも記していた。 『最後に残った自分がこの塚を封じる』と。 「最後に…って、どういう意味だろう?」 いくら考えても答えは出なかった。ただ、総領と共に通夜に駆けつけてくださった東様…現在の夫人にそれを告げた時、彼女にはその意味が分かったように思えたのはなぜだろうか。 「もう、お掃除しても、怒られないわよね」 そう言いながら、軍手をはめて鎌やゴミ袋を持った美和子が、自分たちの先祖の墓の隣の区画に入っていく。 サダの一周忌を待って、彼女の眠る土中の棺を砕いて土に返した。 その際に遺言どおり、塚を壊し、土地を均してその跡に供養墓を建てたのだ。 今では先祖の墓参の度に、美和子がその墓も一緒に掃除をしている。 「ほら、きれいになったでしょう?おばば様」 汗を拭きながら、墓に向かって話しかける妻。 自分もそんな彼女を見ながら、一緒に手入れをすることにしている。 それが少しでも、サダに対する恩返しになればと思いながら。 HOME |